いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「NY地下鉄事故写真」と「ハゲワシと少女」と「新大久保駅乗客転落事故」

参考リンク(1):NY地下鉄で死ぬ直前の男の写真が撮られたとき、他の乗客は何をしていたか(瀧口範子)ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

参考リンク(1)のなかでも触れられているのですが、このニュースを聞いて僕が最初に思い浮かべたのは「ハゲワシと少女」という写真のことでした。


参考リンク(2):『ハゲワシと少女』と「テレビを消す自由」 - 琥珀色の戯言


この2つの事例において、似ているのは「カメラマンが、対象者を助けるよりも写真を撮ることを優先したこと」。
違いは、『ハゲワシと少女』に関しては「戦争の悲惨さを伝える」という大義名分があるのに対して、地下鉄の写真のほうには「衝撃的な瞬間」という以外の「背景」が乏しいこと、といえるでしょう。
撮影者は「カメラのフラッシュで電車の運転者に注意を喚起した」と言っているようですが、現実問題として、もしそのフラッシュで気付いたとして、そこで急ブレーキをかけても、たぶん間に合わなかったはずです。
それに、人間って、動転しているときには、けっこうおかしなことをしてしまいがちなんですよね。
他にも「傍観者」はいたようですし。
まあ、「線路に落ちたら危ないことを世界にアピールしたかった」なんて言うのも、あまりに馬鹿げてはいますからねえ。


「他人の悲劇をネタにして、自分が有名になったり、お金を稼ごうとしている人は、許せない」ということなのだろうか。
でも、そうなると、戦場カメラマンなんていう仕事は成り立たなくなるのではなかろうか。
「写真撮るより、目の前の現地の人たちを助けることが優先」だということならば。
戦場カメラマンの書いたものを読んでいると、戦地では、空爆や敵の虐殺で死んだ仲間の「遺体写真」を「撮影して、世界に知らせてくれ」と頼まれることも多いのだそうです。
自分の力だけでは対抗できない大きな力に蹂躙された人たちにとっては「報道で世界からの助けを求めざるをえない」こともある。
もっとも、それが本当に現地で苦しんでいる人たちの力になるのかどうかは何とも言えず、テレビ局や政府の都合で握りつぶされたり、カメラマン個人の売名にしか役立たない、なんてことも少なくないのですけど。


僕は、こうやってブログを書いていて、ときには誰かの不幸を「ネタ」にすることもあるので、このニュースを見て、考え込まずにはいられませんでした。


なんだかね、こうして、ブログとかSNSで「発信する」ことに慣れてくると、「プチジャーナリスト」みたいな気分になってしまうことがあるんですよ。
自分は、あくまでも「伝える側にいる傍観者」。
本当は、いつ自分が「当事者」になるかわからないのに。


「伝える側」にいつも自分がいると考えると、ラクなんです。
どんな悲劇も、「解説」する分には、ある意味「ネタ」でしかない。
このNYの件にしても、「人命軽視のジャーナリスト」を、ひとりのブロガーとして糾弾するのは、たやすいことです。
「人の命を、なんだと思っているのか!」って。


でも、それをさらに傍観した人から、「そんなふうに責めることによって、このジャーナリストを社会的に抹殺するのは、正しいのか?」という批判も出てくるはずです。
ネット上では、そういう「上から目線合戦」が繰り返されやすいのです。


「傍観者の立場」って、ラクなんですよ。
ずっと自分にとって有利なポジションで戦えるから。
僕は長年ネットでものを書いていて、ときどき怖くなるんです。
自分の人生すら、傍観して、ネタにしてしまう自分。
嫌なこと、不幸なことがあったときに「このくらいだったら、ネットに書けるな」と思ってしまう自分。
いや、それはそれで人生をラクに、楽しくしてくれる面もあるんですけどね。


たぶんこれは、僕に特有の現象ではないと思うのです。
SNSを見ていると、「自分自身がRPGのキャラのようになっている人」って、いますよね。
自分自身の存在に「実感」がなければ、りゅうおうに「世界の半分をお前にやろう」と言われたら、「気になるから『はい』って答えてみようかな」と考え、行動に移してしまう。
みんなが私小説作家、1億総太宰治時代。


僕は考えます。
たぶん、本当にみんなのために働いている医者は、ブログを書く時間があったら診療や研究をしているんだろうな、って。
他の業種の人も、そうじゃないのかな。
でも、僕にはそういう生きかたはできなくて、こうして書くことができる時代に、日本に生まれてよかった、と胸をなでおろすばかりで。


「スクープのためなら、何をやってもいい」というのはあんまりなので、どこかで線引きをしなければなりません。
でも、どこがその境界線になるのか、まだ試行錯誤中、なんですよね。
あまりに多くの人が「伝える側」になってしまった時代には、まだみんな不慣れでもありますし。
この写真も、一般人がフェイスブックやツイッタ―、個人ブログにアップしたのならセーフなのか、とか、いろいろ考えてしまいます。


ところで、地下鉄での転落事故といえば、忘れられないのがこれです。

参考リンク(3):新大久保駅乗客転落事故(Wikipedia)


この事件で、転落した乗客を助けようとして犠牲になったのは、韓国人青年とカメラマンでした。
「だから韓国人は……」「マスゴミの連中なんて……」
そういうレッテルを貼っている人って、ネットにもけっこう多いのだけれども、彼らは「例外」なのでしょうか?
たぶんね、どんな国にも、どんな職業にも、立派な人もいれば、そうじゃない人もいるんだよ。
そして、僕たちは「生きている人」を責めるより、「命を落としてしまった人」のことを、もっと語るべきなのかもしれません。
もちろん、「自分を犠牲にして、他人を救おうとすること」は、簡単に他人に勧められるものではないのだけれども。

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