いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『ゴーイング マイ ホーム』の最終回を観て

いま最終回を観終えて、勢いにまかせて書いているので、よくわからない内容だったらすみません。


正直、このドラマ、毎週録画して観てはいたのだけれど、非常にゆるやかな流れでもあり、横目で観ながらネットやったりして、あんまり真面目に追っかけてはいなかったんですよね。
後半は、「とりあえずここまで観たから」という感じで、8割くらい義理で見続けていた感じ。
なんかダラダラしたドラマだし、豪華キャストがもったいないな、とも思っていました。


でも、今日の最終回を観て、なんだかとっても腑に落ちた。
このドラマは、クーナとか広告業界とかの話じゃなくて、「普通の人が、普通に死んでいく話」だったんだな、って。
最終回は、栄輔さんのお葬式、それも、ごく普通の「高齢で、長患いのあとで亡くなり、家族も悲しみとともに死を受け入れているお葬式」が延々と描かれていました。


幼なじみからの遠慮はないけど惜別の情が溢れている言葉とか、酔っ払って寝てしまう人がいたりとか、子どもたちが所在なさそうにしていたりとか、火葬場で「まだ骨が残っているのに」と愚痴を言う人がいたりとか。


そんな場面を見ながら、「ああ、そういえば、こんな『普通のお葬式』って、なんだか久しぶりに見たような気がする」って、僕は思ったのです。
最近、とくに東日本大震災以来、たくさんの「思いがけない死」を直接あるいは間接的に目の当たりにしてきました。
遺体が激しく損傷していたり、小さな子どもだったり、遺体そのものがなかったり、十分な弔いの儀式ができなかったり。
また、『葬式は、要らない』なんていう新書がベストセラーになり、「直葬」という、葬式を行わずに、直接火葬場に行くやりかたが増えてきてもいます。


でも、このドラマを観ていたら、「ああ、こういう『普通の葬式』も、悪くないな」って思ったんですよね。
ただ、僕自身は、自分の親の葬式で「悪くないな」とは思う余裕はなかったんですが。
けっこう突然だったし、僕もまだ若かったから。


いちばん印象的だったのは、ずっと平然としていたようにみえた良多が、ずっと打ち解けられなかった父親の遺骸の前で、泣き崩れたシーンでした。
あまり自分の父親とうまくいっていなかった僕のなかからも、いろんな記憶が溢れてきて、止まらなくて。
父親と息子というのは、どこもみんな、こんな感じなのかもしれませんが、みんながそうだからといって、自分が救われるというわけではなくて。
ただ、あの場面で良多の傍らに佇んでいた沙江は、本当に頼りがいがあって。


ごく普通の死、そしてお葬式。
こういう死って、実はそんなに当たり前じゃないのかもしれません。
でも、こういう「普通の死」の積み重ねこそが貴重なもので、生命のバトンは、こうして受け継がれていくのではないかな。


この最終回を観ることができただけでも、いままで観てきてよかったな、と思っています。
ああ、そういえば、僕も良多と同じくらいの年齢なんだよな。

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