いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「意識高い系小説」としての『山月記』

参考リンク:『山月記』(青空文庫
中島敦 山月記


いまも多くの教科書に採用されているらしいので、この中島敦の『山月記』を読んだことがある人は多いはずです。
僕は中島敦大好きなのですが(もともと中国史も好きなので)、この『山月記』に関しては、なんともいえない「美しさ」とともに、やるせなさを感じる作品でもあります。


斎藤美奈子さんの『名作うしろ読み』の文庫版を読んでいたら、この『山月記』も採りあげられていたのです。


斎藤美奈子さんは、『山月記』について、こう仰っています。

 詩人になりたいという夢を果たせず、トラにされた李徴。小説としては鮮やかな幕切れである。が、教育的にはどうなのか。「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」をキーワードに、学校では「才能があっても努力しなければダメである」みたいな教訓をむりやり引き出す。でもこれ、「才能もないのに夢をみても人生を棒にふるだけである」とはいえない?
 これが太平洋戦争中に発表され、かつ同じ年に作者が死去したことを思うと、トラの咆哮は夢に邁進できなかった若者の「ちくしょう!」という叫びにも思えるが、戦後、この小説が教科書に採用された理由は謎である。芸術家を夢みる青年に釘を刺し、マジメに労働に励めといいたかったのか。それもまた、教育的ではないとはいえませんけど。


「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」か……
「教科書的な」という言葉は、「典型的な」「一般的な」という意味で使われることが多いのだけれど、実際に教科書に載っている作品には、一筋縄ではいかないものも多いのです。
夏目漱石の『こころ』とかも、そうだよなあ。


この『山月記』格調高い文章で僕も大好きなのですが、その一方で、「才能があっても、努力しないとダメだ」というような「読み」が正しいのかどうか、僕はずっと疑問だったのです。
いやむしろ、努力することは当たり前として、それだけではたどり着けない場所みたいなものがあるのではないか、とか、人生というのは、結局、なるようにしかならないのだ、とか感じていたんですよね。
だって、この李徴という人のキャリアの途中で、誰かが「お前才能ないから、詩人になんかならないほうがいいよ」「家族のために、平凡な官僚として一生を終えろよ」とアドバイスしたところで、聞き入れてもらえるとは思えない。
もし、彼に対してなんらかの影響力を行使できる人物がムリに李徴を「安定した生活」に押し込もうとしたら、李徴はずっとその人を恨み、「自分は詩人として世に出るはずだったのに」と後悔し続けたはずです。
外部からの「客観的な意見や評価」は、李徴を諦めさせることはできなかったと思う。

そもそも、李徴という人物が抱えていた「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」みたいなものって、詩人としての才能にもつながるのだろうし。


袁傪は李徴の人間時代の詩に対して、「成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか」と評しています。


僕はこれを読んでいて、村上春樹さんが安原顯さんの小説について書いていたことを思い出しました。

d.hatena.ne.jp

「安原さんがその人生を通じて本当に求めていたのは小説家になることだったのだろうと今でも思っている。編集者として多くの作家の作品を扱ってきて、「これくらいのものでいいのなら、俺にだって書ける」という思いを抱くようになったのだろう。その気持ちはよくわかる。また書けてもおかしくはなかったと思う。しかし、何故かはわからないのだが、実際には「これくらいのもの」が書けなかったのだ」


山月記』の李徴も、詩人としては、「これくらいのもの」が書けなかった。
ですが、人外の存在、トラに「堕ちて」しまってから作った詩は、その「欠けていたもの」が見事に埋められていたと、袁傪は感じていたようにみえます。
皮肉なものですよね。
でも、芸術とか創作って、そういうものなのかもしれないな、と妙に納得してしまう話でもあるのです。
李徴は「人間の心を持っていなかった」から、トラになってしまったのか。
それとも、詩人として「壁」を超えるためには、トラになることが必要だったのか。


あらためて『山月記』を読み返してみると、これは「意識高い系」を描いた小説ではないか、とも思うのです。
世の中には「意識が高い人」と「意識高い系」は違う、と考えている人が多いようにみえるのだけれど、実際のところ、「ものすごく意識が高くて、自己実現のための研鑽を欠かさない人」と「理想を語るばかりで、全く現実の努力をしていない人」という両極はあるとしても、その真ん中あたりの「目標に向かって、それなりの努力をしている人」というのは、「意識が高い」のか「高い系」なのか、鑑別が難しいのです。
結局のところ、「結果を出したかどうか」、後付けで判断せざるをえないのかもしれない。
そして、この「真ん中あたりの人」が、多数派だと思うのです。


彼らに「現実を見ろ」といっても、結局は自分で挫折してみるまではブレーキをかけられないのは、李徴をみてもわかるというか、そもそも李徴は、トラになっても家族より自分の詩のことをアピールしてしまう「人でなし」なんですよね。
アーティストのなかには、そういう「人格破綻者」が含まれているのだけれど、世の中というのは、壊れた人が、もっとも完璧な旋律を奏でることもある。


山月記』が僕をせつない気分にさせるのは、結局のところ、李徴という人は、こういう生き方しかできない人で、世の中には、そういう人がいるのだ、ということを思い知らせてくれたからなのです。
李徴がかわいそう、が半分。
そして、李徴のように堕ちることすらできなかった自分への哀れみが、半分。


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