いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「もし話していただけなければ、何を書かれても知りませんからね!」

※以下の文章の僕自身に関するところには、僕自身と周囲の人間のプライバシーを考え、一部ぼかして書いているところがあります。
もともとハンドルネームで書いているにもかかわらず、このような加工をしていることを御容赦ください。


小保方晴子さんの『あの日』のなかに、捏造疑惑の渦中にあった小保方さんが「取材攻勢」に悩まされたときのことを振り返っていた部分があります。

 私個人に対する取材依頼は連日のように来た。「記事化を考えています」「何日までに返事をください」というメールは脅し文句のように感じられた。返事をすると都合のいいところだけを抜粋して記事に使用され、返事をしないと「返答がなかった」と報じられた。
 特に毎日新聞の須田桃子記者からの取材攻勢は殺意すら感じさせるものがあった。脅迫のようなメールが「取材」名目でやって来る。メールの質問事項の中にリーク情報や不確定な情報をあえて盛り込み、「こんな情報も持っているのですよ、返事をしなければこのまま報じますよ」と暗に取材する相手を追い詰め、無理やりにでも何らかの返答をさせるのが彼女の取材方法だった。
 笹井先生からは、「このまま報道されては困るからできるだけ返答するようにしている。メールボックスを開くのさえ辛い。日々、須田記者の対応に追われてノイローゼがひどく他の仕事ができなくなってきた」と連絡を受けた。丹羽先生も同様のメールや電話の攻勢を受け困り果てていた。メールの最後は「お返事がない場合にはその理由をお知らせください」と締めくくられる。自分さえ多くの情報を得ることができるなら、取材をかける人たちにどれだけ大きな負担がかかろうが構わないのだろうか。その手段は暴力的だと私は感じていた。


 これを読んでいて、僕は今から20年以上前の、苦い記憶を思い出さずにはいられなかったのです。
 そのとき、僕と家族は身内が、突然ある事故に遭ってしまったことにより、打ちひしがれていました。
 いろいろな手続きであるとか、弔問に来てくれた人たちへの対応に追われ、抜け殻のようになりながら、とりあえず、やらなければならないことをやっていたのです。
 人が途切れると、なんだかもう、その場に存在しているのもつらくて、消え去ってしまいたいくらいでした。


 そんななか、夜遅くに、家のドアを、叩く音がします。
 ドンドンドンドン、「すみません、○○新聞です。お話を聞かせてください!」
 あの……とくにお話するようなこともありませんし、思い出すのもつらい状況なんです。お引き取りいただけないでしょうか。
「えっ、○○新聞ですよ。もし話していただけなければ、何を書かれても知りませんからね!」
 ……出て行け!(とは言わずに、「とにかく今はお引き取りください」くらいの表現にしたと思います。そのときは)


 小保方さんは「悪いことをした」かもしれないけどさ、「うそつき」かもしれないけどさ。
 あれから20年あまり、マスコミって、何一つ変わってはいないんだな、って。
 いや、正確には、「こういう、『脅迫とか恫喝めいた手法で、無理やり『取材』をしようとする人」って、存在し続けているんだな、って。


 僕の当時の事例は、あくまでも「被害者としてのコメント」ですから、小保方さんの例に比べたら、まだ記者の「脅迫」もたいしたものではなかったし、翌日以降の紙面に、「勝手に書いた記事」が載ることはなかったようです。
 僕自身は、以後、その新聞を手にとったこともありません。
 あの新聞社にだけ、そういう記者がいるのではないのも、わかってはいるのだけれど。
 

 STAP細胞に関して、須田桃子記者はかなり丁寧な取材をしていると僕は思っていましたし、彼女が書いた本も読みました。
 おそらく、STAP細胞事件に関して書かれた本のなかでは、もっとも世間に流通しているもののひとつだと思います。
 でも、この取材方法を読んで、僕は過去のトラウマを引きずり出されてしまった。
 あれは、僕のメディア不信の原点でした。


「ああ、この人たちは、こうやって無理やり『取材』をして、相手がつらい状態だったり、事情があったりしてもお構いなしに、『自分の質問に答えなければ、好き勝手に書く』のだな」


 小保方さんの場合は「悪いことをした」あるいは、「悪いことをした可能性が高い」から、こういう「脅迫的な取材方法」が許されるのだろうか?
 あるいは、「悪党は、このくらいやらないと、本当のことを言わない」と、取材者たちは、考えているのだろうか?
 

 返答がないときに「返答がなかった」は、許容範囲だと思うんですよ。
 でも、取材の内容って、けっこう取材者側の都合がいいように切り取られていることが多いわけで。


「帰宅途中の小保方さんに『STAP細胞は存在するのですか?』と質問をしたが、返答はなかった」


「帰宅途中、マンションの前にひしめいている報道陣に取り囲まれ、たくさんのマイクを向けられて押しつぶされそうになりながら部屋に向かおうとした小保方さんと一緒にエントランス内に入り込み、後を追いかけて『STAP細胞は存在するのですか?』と質問をしたが、迷惑そうな顔をされただけだった」


「お返事がない場合にはその理由をお知らせください」
 相手が「悪いヤツ」だったら、どんな方法で取材しても良いのだろうか?
 そもそも、この時点での小保方さんには「疑惑」がかかっていたけれど、なんらかの「判決」が出ていたわけではなかったのに。
 でも、「悪いヤツに、本当のことを言わせる」ためなら、どんな方法でも、許されるのだろうか。
 それこそ「正義の暴走」ではないのか。
 そうやって取材したものを「お手柄」のように受け入れても良いのだろうか。


 あの事故まで、僕は自分のことを「賞罰無しの人間」だと思っていました。
 ところが、そんな人間でも、巡り合わせが悪いと、「取材される側」になることもある。
 

 小保方さんが「本当のこと」をこの本のなかでどのくらい言っているのか、僕にはわかりません。
 でも、ここに書かれていたことは、僕の苦い体験を蘇らせるものでした。
 こんな方法で行なわれる取材や告発に「正義」は、あるのだろうか?

 

あの日

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捏造の科学者 STAP細胞事件

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捏造の科学者 STAP細胞事件 (文春e-book)

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