いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

もしかしたら、僕たちは、相談する相手を間違えているのではないだろうか?

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このエントリを読んでいて、先日、「天皇・皇后両陛下の結婚記念日」についてのニュースを見て考えたことを思い出しました。


 4月10日は、天皇・皇后両陛下の結婚記念日。
 僕は子どもの頃「皇室の人たちって、働かなくても年間何千万円ももらえてうらやましいなあ、そもそもそれって、『差別』なんじゃないの?」とか思っていたのだけれど、自分が年をとるにつれ、その代わりに課せられている役割のあまりの重さに「大変だろうなあ」としか言えなくなってきたのです。


 亡くなった僕の母親は美智子皇后の大ファンで(というか、僕はこれまで、ゴシップ週刊誌の記者以外で、美智子さまの悪口を言っている人をみたことがない)、ずっとそのミーハーっぷりを見せられてきた僕も、美智子さまが元気にされているのをみると、なんだか嬉しくなってきます。
 いくら良家の子女だったとはいえ、皇室に入り、皇后さま、と呼ばれる人生は、けっしてラクではなかったはず。


 結婚記念日のニュースのなかで、結婚50周年の際の、ふたり揃っての記者会見の様子が流されていたのですが、天皇陛下も、皇后陛下も、お互いに「ただ、感謝です」と仰っていて、それを観ていたら、なんだかもう泣けてしまって。
 まだ結婚して10年にもならない僕でさえ、結婚生活というものには、あれこれと思うことろがあります。
 なんでこんなに噛みあわないんだろう、とか、もうちょっと僕がやっていることを評価してくれても良いのではないか、とか。
 それは、向こう側からみても、同じなのかもしれないけれど。
 結局、「相手に何かしてもらうこと」ばかりを期待しても、しょうがないんだよね。
 頭ではわかっているつもりなのに、やっぱりイライラしてしまうこともある。


 56年間という気が遠くなるような時間を一緒に過ごし、相手に「感謝」と言えるような夫婦生活って、この地球上に存在するのかなあ、とか考えてみたりもするのです。
 バックヤードでは、夫婦喧嘩とか、してるんじゃないか、とか。
 それでも、両陛下に関しては、本当にそういう関係なのかもしれないな、と信じてしまいたくなるのです。


 僕はあまり人に物事を相談することって無いのですが、「人生相談」とか「恋愛相談」って、「経験豊富だと思われている人」にすることが多いじゃないですか。
 でも、この場合の「経験」って、何なのだろうか。
 たとえば、多くの異性と交際してきた「遍歴」が多い人とか、転職を繰り返して、さまざまな仕事をしたことがある人とかが、「経験豊富」って思われがちですよね。
 彼らのなかには、豊かな言葉、表現力を持っている人も多い。


 もちろん、世の中には、そういうアドバイスが役立つ人もいると思います。
 ただ、僕みたいに、あんまり冒険的な人生を望まない人間にとって、彼らの「経験」ばかりを参考にするのは、あまり適切じゃないような気がするのです。


 むしろ、「ひとつの会社を定年まで勤め上げた人」とか、「多少の諍いがあっても、ずっと夫婦生活を続けてきた人」の「経験」のほうが、役に立つのではなかろうか。
 当たり前のことなんですけど、「そういう、傍からみたら平穏な人生」にも、当事者には疑問や内心の嵐はあったはずで、そういうものを、どう飼いならしてきたのかって、貴重なノウハウだと思うのです。
 そういう人の多くは、「いや、僕なんて本当に人に参考にしてもらえるようなことは、何もなくて……」って、宴席の片隅で、静かにビールを飲んでいる。



 もしかしたら、僕たちは、相談する相手を間違えているのではないだろうか?

 
 もちろん、両陛下に相談することは不可能ですが、本当に自分の役に立つ答えって、案外、身近な、目立たない人が持っているんじゃないか、と僕は思うのです。
 

 作家の森博嗣先生に、こんな言葉があります。

 経験できるのは、僅かに自分の人生一回だけだ。他人の人生も、自分の別の人生も、無理。人生経験が豊かな人というのは、基本的に嘘である。


 僕は自分の人生経験とか恋愛経験が他の人に比べて乏しいのではないか?とずっと思っていて、それがコンプレックスなのですが、この言葉を聞いて、なんだかすごく気分がラクになったんですよね。
 一人の女性と10年付き合うのも、十人の女性と1年ずつ付き合うのも、それはそれで「経験」としては等価。
 ずっと10年間ひとりでいる経験というのも、また等価なのかな、と。
 あとは、「その経験を、自分でどう解釈していくか」なんですよね、それがまた難しいことだけれども。