いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

あなたの人生のピークは、何歳のときですか?


個人的には、例の「小学4年生のふり事件」については、あんまり興味がわかないのですけど、この小田嶋さんのツイートには、いろいろと思うところがあって。


この「人生のピークが小学校4年生の時代だったのではないか」という言葉は、なんだかすごく「痛いところをついている」ような気がしたんですよね。
ネットでも、この人は「早熟な人」で、成長につれて「普通のひと」になっていき、その「特別な存在だったはずの自分が、正規分布の範囲内の存在でしかなかったことへの鬱屈」みたいなものが、こういう年齢詐称を生み出したのではないか、という考察がみられます。
実際のところは、どうだかわからないんですけどね。


「それが子どもの発言である、という触れ込みは、発言内容の影響力を説得力を劇的に増すことがある、というのは、おそらく、人類の、先進国でよくみられる現象ですし。
先日、ノーベル平和賞を受賞したマララさんのことばだって、彼女がまだ十代で、命がけで主張していたからこそ、西欧に響いた、という面はあるのです。
あの国で女性の教育の必要性を訴えていたのは、マララさんだけではなかったはず。


前置きが長くなりましたが、この「コイツの人生は小学校4年生がピークだったんだろ」というのを読んて、僕は最初「痛快」だったんですよ。
でも、なんだか心に引っかかるところがあって。


あなたの人生のピークは、何歳のときですか?


そう問われて、即答できる人は、どのくらいいるでしょうか?
僕自身も考えてみたのですが、「答え」が無い。
学生時代も、現在も「賞罰なし」だしなあ。
「どん底だった」と言える時期はあるけれど、「ピーク」は、わからない。
いろんな意味で、若い頃より、生きるのがラクになってきてはいるんですよ。
体育の授業に出なくてもいいし、自分でお金を稼いで、家族と凹凸はありながらもなんとか暮らせているし。


まあでもそれは、「ピーク」じゃないよな、と。
「次回作が、自分の最高傑作だ!」とつねに言い続けている、という作家の話を聞いたことがあり、それは素晴らしい姿勢だな、とも思うのですが、40歳も過ぎたオッサンが「俺の人生は、これからがピークなんだ!」と主張するのは、「前向き」というよりは「誇大妄想」と言うべきです。
政治家や社長の座を狙うようなビジネスマン、世界的な研究者であれば、還暦くらいが「(キャリアの)ピーク」となる可能性はありますが、そういう人は、ごくわずかでしょう。


このツイートを読んで、僕は自分が大学生になった直後のことを思いだしていました。
まだ大学生になったばかりの僕たちは、クラスメイトの家に交互に遊びに行き、大学生活を満喫しはじめていました。
そのとき、ある同級生の家で、ひとりが家主の「高校時代の模試の成績」を見つけて、「おおっ、お前、『成績優秀者リスト』に載ってるじゃん、すごいな!」と言いはじめたのです。
それからみんなで、しばらくのあいだ「高校時代の成績談義」で盛り上がったんですよね。


でも、僕は内心、それがバカバカしくてしょうがなかったのです。
いや、高校時代の成績はどうあれ、今の僕たちは、みんな「同じ大学」に入ってしまったわけなんですよね。
世間的にはすでに「同じ大学の人」なわけで、そのなかで、高校時代の成績比べをすることに、意味なんてあるのか?
東大の理3とかならともかく、地方の大学の医学部で、「頭よかった競争」をやっても、ねえ。
それこそ、「ドングリの背比べ」だろう、と。
もちろん、まだ知り合って日が浅い僕たちにとっての「共通の話題」は、みんな大学受験の経験がある、ということなのは間違いないので、会話の糸口としては、間違ってはいないのだろうけど。


ああ、でもそういうのって、こうして大学に入るまでの経緯みたいなものについても、大きな影響を受けているのだろうなあ。
僕自身は「進学校の第二集団」くらいにずっといたので、「世の中にはすごいヤツがいるなあ」という驚きと諦め、そして、「それでも、いちおう医学部に受かれたので、とりあえず最低限くらいか……」というくらいの認識で、大学生活をスタートしました。
その大学の男子学生には、そういう、ちょっと斜に構えた感じの人が多かった記憶があります。
進学校崩れ」みたいな、自分の限界をみて、すでに妥協してしまったような雰囲気。


その一方で、女子のなかには「地元でいちばんの公立高校」をトップクラスの成績で卒業し、推薦で合格し、周囲から「すごい!」と持て囃されて入学してきた人もいたんですよね。
彼女たちはみんな、真面目な生徒会長的にみえました。
「お父さんは、仕事場に私の成績票を貼っている」なんて話をきいたときには、ちょっとクラクラしましたが。


地方大学の医学部に入ってくるような人には、大きく分けて、「なんとかここに引っかかってよかった」というタイプと、「こうして医学部に受かった自分は立派なものだ」というタイプに分かれるのです。


ただし、そういう「類型」みたいなものが、その後もずっと尾を引いているというわけでもなくて、「滑り止めグループ」のなかに、医学や患者さんと接することに生きがいを見いだすことができた人もいるし、「地方エリートコース」のなかにも、「この仕事、私には向いてない」と、ドロップアウトしてしまったり、結婚退職してしまう人もいます。
「トップじゃない人々」のなかにも、それなりに葛藤はある。


でもまあ、この世界でも、「医学を極める」とか「患者さんのために、身を削って尽くす」とかいうのを突き詰める人はそれほど多くないし、年齢とともに、みんな「仕事もプライベートもほどほど」ゾーンに集まってくるのが現実なのです。


僕自身、まさに「神童」(これは言い過ぎか)と呼ばれた子どもが、進学校で、東大に行く連中を仰ぎ見ながら「できるほうのグループ」に属し、「なんとか普通の医者」として仕事を続けていく、そんな「転落の歴史」を辿ってきているわけで、この小田嶋さんのツイートは、なんだか身につまされるよなあ、と。


高校野球の地方予選では「甲子園常連の強豪校」でも、甲子園に出てくれば、PL学園(野球部、どうなるんでしょうね)にレベルの違いを見せつけられて惨敗してしまう。
それは、笑うべきことではなくて、どの世界でも、レベルの高いところを目ざして、トーナメントに参加すれば、誰もがいつかは負けるのです。「優勝者」を除けば。


一部の成績がはっきり出るようなスポーツ選手の世界を除けば、「人生のピーク」なんて、案外はっきりしない、というか、多くの「普通の人生」にとっては、「ピーク」なんて意識しないほうが良いのではないかと僕は思います。
ピークが過去では、がっかりするだけだし、いくつになっても「未来にピークがある」というのは、「往生際が悪い」としか言いようがないし。
しかしまあ、自分の人生が折り返し点を過ぎてしまうと、今度は子どもにあれこれ投影して、プレッシャーをかけはじめてしまいそうになるのも、困ったものではありますね。


「転落」を「転落」として認めること。
「転落」するのは、悪いことではなくて、そうやって、世界の広さを知っていくのだということ。
そして、なるべくマシなところへ向かって「転落」すること。


昨日、ソフトバンクホークスの優勝パレードのニュースを観ながら、僕はパレードしている選手たちのことではなくて、「群衆」のひとりとして参加している35万人のことを考えずにはいられませんでした。
選手たちがいなければ、優勝パレードはできない。
でも、あの大混雑のなか、一瞬選手の顔をみるために参加した35万人がいなくても、優勝パレードにはならないんだよね。



地雷を踏む勇気 ?人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)

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小田嶋隆のコラム道

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