いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

それを「シンポジウム」と呼んではいけない。

※このエントリには、自殺についての話題と、自殺について書かれたエントリへのリンクがありますので、精神的に不安定な状態を自覚されている方は、読まないでください。 長くなりそうなので、なるべく短く、まとめて書きます。

 

きっかけは、このエントリでした。 

参考リンク(1):自殺という選択肢はアリ?ナシ?〜週末シンポジウム第3回〜(心がよろけそうなときに読むポンコツ日記)

 

それに対して、さまざまな反応が寄せられたのですが、そのなかでも多くの人に読まれた(であろう)ものがこちら。

参考リンク(2):「自殺」に関して〈個人〉と〈社会〉の両側面から考えたい(ぐるりみち)

 

そして、この「参考リンク(2)」に対して、こんなエントリが書かれていました。

参考リンク(3):自殺する人は弱い(grshbの日記)

「弱い」という断定調のタイトルの影響もあってか、このエントリはだいぶ話題になったのですが、コメント欄や、以下のブックマークコメントでは、かなり強い批判が並んでいます。

 

参考リンク(4):はてなブックマーク - 自殺する人は弱い - grshbの日記

僕も、この参考リンク(3)のエントリは、好きじゃありません。

これを読みながら、自分の記憶を辿り直したり、あらためて考えてみたりしたのですが、多くの場合、当事者は、よくわからない激流みたいなものに押し流されてしまっていて、その過程ではどうしようもなかったのだと思うのです。

このエントリに感じる反発というのは、前回のエントリとも関連しているのですが、韓国の旅客船沈没事故の被害者に対して、「こうすれば助かったのに、なんでそうしなかったの?」と後付けで「正解」を教える人に対しての反発に近いような気がするのです。

だから、批判的なコメントがたくさんつくのはよくわかります。

こういうのを読むと、「あのとき、何か自分にできたんじゃないか?」と、過去の傷が疼くしね。

 

追記となる、

参考リンク(5):先日の記事「自殺する人は弱い」が炎上した件について- grshbの日記

で、さらに火に油を注いでしまった観もあります。

これに対するブックマークコメントには、かなり強い言葉が並んでいます。

 

そのなかに、参考リンク(1)を書いた人の、こんなコメントも出てくるんですよね。

 

うーむ、この人も、いろいろ辛かったのだろうな、とは思うのです。

「弱い」って言われて、つらくなって、反射的に「もう書くな」と言ってしまったのかもしれません。

 

でもね、僕は「えっ、この人は『シンポジウム』と称していて、『いろいろな意見を求めていた』はずなのに……」と、がっかりしたんですよ。

率直に言うと、こういう反応を想定していなかったの?と驚きました。

『自殺する人は弱い』って、刺激的なタイトルですが、内容的には、けっこうありがちな「自殺」=「自己責任論」です。

居酒屋で、ちょっと「腹を割って」話してみれば、こういうふうに考えている大人って、少なからずいます。

その一方で、「自殺」とか「死にたい気持ち」って、そんなに特別なものじゃない。

年間3万人が自殺している国、なのだから。

以前、周囲の人と、「精神的な不調を感じたことがあるか?」という話になったのですが、「実は私も……」と、ほとんどの人が手を挙げ、薬を飲んでいた(いる)こと、仕事を休んでいた時期があることなどを打ち明け合っていました。

人によって濃淡はあるのでしょうが、「自殺に無関係な人も、自殺に無関心な人もいない」というのが、僕の実感です。 もちろん、しょっちゅうそれを他人と話し合ったりはしないのでしょうけど。

 

id:grshbさんのエントリには、煽り成分が含まれており、強い言葉が並んでいるとは思います。

しかしながら、書かれていることは、ひとつの考え方であり、特定の個人を誹謗中傷するようなものではありません。

そういうのが「自分の経験と響き合って、つらく感じてしまう人がいる」のも、ネットというものなのですけど。 grshbさんのエントリの内容って、『シンポジウム』をやるのであれば、「ありがちな『自殺』=「自己責任論の一類型』」として、必ず議論されるべきものでしょう。

これを信じている人、信じたがっている人は、僕の実生活での観測範囲では、けっして「少数派」ではないのだから。

 

id:ponkotukkoさんが「自殺に関する記事は、今後一切書かないで」とコメントを書いたのを見て、僕はこう思いました。

 

(現在の)この人は、自殺に対して何かを考え、自殺者を減らすための議論をしたいというよりは、自分に共感している人たちと傷の舐め合いをしたいだけではないのか?

 

もちろん、ネットで共感を求めることが、間違っているというつもりはありません。

僕だって、共感してほしいことは、たくさんあるし、反発されたらつらいです。

これが、個人的な体験談を書いただけのエントリに「自殺する人は弱い」とコメントされていたのであれば、そんなコメンテーターは軽蔑されても致し方ないと思う。

でもね、仮にでも「シンポジウム」と銘打って、「さまざまな意見を聞きたい」と言いはじめた当事者が、気に入らない意見だから、自分が傷ついたからといって、それを「書くな」と排除してはいけないと思うのです。

 

なぜ「自己責任論」が出てきて、それが根強く主張されているのか?

本当に「運が悪かった」だけで終わらせてしまっていいのか? 

それだと、今後の「予防」につながらないのではないのか?

とてもつらいことだけれど、過去に学ぶことで、未来の命をひとつでも「救える」可能性があるのではないか?

 

自分たちと意見が異なる人は、最初から排除してしまうのだとしたら、それが「シンポジウム」ではなくて、「吊るし上げ会場」です。

しかも、こんな「ありがちな意見」まで吊るされてしまうのであれば、「どんな『いろんな意見』を書いたらいいのか、最初に教えておいてくれればいいのに」と皮肉を言いたくもなります。

 

馴れ合いたいだけなら、「シンポジウム」なんて言わなければいい。

まず「いろいろな意見(誹謗中傷は除く)」の存在を受け入れるところから始めないと、「前向きな議論」なんて、できるわけがありません。

「シンポジウム」の議長(まとめ役)を買って出るのには、それなりの「覚悟」が必要なはずです。

id:ponkotukkoさんに個人的に含むところはありません。 ほとんど(というか全くに近いくらい)接点がなかった人ですし、今回、槍玉にあげてしまって、申し訳ないとも思っています。

傷口に塩を塗りこむような内容かもしれません。

でも、だからといって、「過剰で的外れな排除」を認めたくはないのです。

 

僕としては、今回の件で「自殺について語る人って、なんか独善的で他人の意見に耳を傾けてくれない」というイメージが多くの人に植え付けられ、「共感・賛同者」と「かかわり合いになりたくないから、自分の意見を隠して沈黙する人」に、二極化してしまうことを危惧しています。

 

漫画家の西原理恵子さんは、アルコール依存症だった夫・鴨志田穣さんとの生活の体験を通じて、「適切な治療の必要性」を、ずっと訴え続けています。

彼女は偏見に対して、『それは違う!』と声高に叫ぶのではなく、自分の体験をマンガや文章にして発信したり、積極的にテレビに出たり、講演活動をしているのです。

人気漫画家の西原さんですが、アルコール依存症の啓蒙活動に関する講演は「ほとんど無料で行っている」そうです。

西原さんだって、「偏見」に対して、つらい思いをしたり、排除したいと感じたことは多々あるはず。 でも、彼女は、「笑いを交えた『体験』で、みんなに伝えること」を選んでいるのです。

もちろん、誰にでもできることじゃない。

それでも、「西原さんが、そんな伝え方を選んだ理由」を考えてみる価値はあるはずです。

 

最後に、『白鯨』を書いたハーマン・メルヴィルの『ピエール』という小説の一節をご紹介します(訳は柴田元幸さん)。

 

 なぜなら、途方もない窮地に至った者の魂は、溺れかけている人間のようなものだからだ。危険のただなかにあることは自分でもよく承知している。危険の原因もよく承知している。にもかかわらず、海は海であり、溺れかけている人間は溺れるのだ。

 

僕はこのことを、ひとりでも多くの人に知ってもらいたいのです。

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