いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「答えることのできない問いに、答えなければならない時代」の苦しさ

参考リンク:「あいつが悪い」の大合唱が怖い :Heartlogic


僕もそういう「ネットでの大バッシング」は怖いな、と思うのです。
ただ、今回の「飛行機で泣き止まない子ども」の事例に関しては、なんというか、あまりスッキリしないところがあって。


さかもと未明さんが、「子どもの泣き声がうるさい」と感じる権利はあるんですよね、基本的には。
それこそ「個人の自由」なわけです。
じゃないと、「お前はいま、俺のことをバカだと思っただろう!」って責められる世の中がやってきてしまいます。
僕個人の「落としどころ」としては、「うるさいし、迷惑かけて申し訳ないんだけど、みんな昔は子どもだったんだし、こちらでも努力はしますので、なるべく丸くおさめてもらえませんか?」くらいだったりするんですよね。


僕も小さな子どもの親なので、「自分の子どもが、他の人に迷惑をかけてしまうケース」を想像せずにはいられません。


「ネット上での過剰な同調圧力」には、怖さを感じます。
その一方で、親として、大人としては、「個人の自由」の名のもとに「うるさい子どもは飛行機に乗るな!」というような社会、あるいは、子どもが泣いたことで誰かに罵倒されても受け入れざるをえないような社会になっては困る、という危機感もあります。
「ネット上での大バッシング」は怖いけれども、こういう「見せしめ」によって、内心「子どもってうるさいし、飛行機に乗せないようにしてほしい」って考えている人も、それを口に出しづらくなるのは間違いないでしょう。
そのバッシングの半分が、「面白がって、炎上している有名人に燃料を投下し続けている人」によるものであっても、炎は大きければ大きいほど、「見せしめ」としての効果は高くなります。


僕は「『あいつが悪い』の大合唱は怖い」けれども、その大合唱が、少なくとも短期的には、自分にとってメリットが大きいことを知っています。
「そのくらい言ってもいい」ということになると、次につらい思いをするのは、うちの家族かもしれないんだし。
逆に「うるさい思い」をすることもあるんでしょうけどね。


実は、ネットでさかもと未明さんをバッシングしている人たちだって、みんながみんな、さかもとさんが「間違っている」から叩いているわけじゃないと思うのです。
むしろ、「さかもとさんの主張が是とされるような『寛容な』世の中」になってしまうと、子どもを持っている親として怖いから」叩いている人のほうが多いのではないでしょうか。


ネットで俯瞰していると、さかもとさんの味方はほとんどおらず、「さかもと未明包囲網」は圧倒的な大軍です。
そのなかで、「とにかく有名人を叩いて溜飲を下げたい」という援軍もかなりの兵力です。
ただ、「圧倒的多数 vs 個人」というのは、ものすごく不公平な勝負のようにみえるけれど、当事者にとっては、必ずしもそうではない。


アメリカ同時多発テロの直後、僕はアメリカ人の先生に英語を習っていました。
基本的には英語で会話をしながら、手直しをしていってもらうのですが、その中で、「アメリカの正義」について、こんな話になったのです。


僕は「アメリカはなぜ、『テロとの戦い』を理由に、民間人も犠牲になるようなイラク攻撃をするのですか? アメリカのような強国が、勝つとわかっている相手に、多くの人を犠牲に戦争をするのは、酷いことのように思えるのですが?」と尋ねました。

先生は、こう答えたのです。
「あのテロ以来、アメリカ人は、みんな怖がっているんだよ。もちろん僕もそうだ。国と国との軍事力でいえば、アメリカが負けることは、まずありえない。でも、自分や家族の命は、たった1機の飛行機で、失われるかもしれない。自分たち自身のこととして考えると、少しでもリスクは減らしておきたいんだ」


さかもとさんは、不快だったのだろうし、つらかったのだろうと思います。
でも、さかもとさんに反論してきた人たちも「正義を示したかったから」ではなくて、「怖かったから」不安の芽を摘もうとしたのです。
いまのうちに「修正」しておかないと、いま以上に「子連れにとって、生きにくい世の中になる」かもしれないから。
明日、飛行機の中で罵声を浴びせられるのは、自分たちかもしれないから。


もちろん、だからといって、相手を「社会的に抹殺する」レベルまで叩くことが正しいわけではないのです。
いまのところは、「命がかかった問題」ではないですし。
それでも、多くの大人や親は、ネットでの「正義の暴走」に溜息をつきながら、止めることもできない。
この「バッシング」は、第二のさかもと未明の出現を未然に防いでくれるはずだから。


何か間違っているんじゃないか? やりすぎなんじゃないか?
そう思いながらも、それが自分にとってメリットが大きいと思うと、その波に逆らうと、自分も押し流されてしまうかもしれない、と思うと、「追従」してしまうんですよね。


生活保護バッシング」とかもそうなんだよね、きっと。
当然の権利として受けている人が大部分なのに、自分たちだって、いつか必要になるかもしれないのに、バッシングは起きてしまう。
それは、間違っていることなのだと思うけれど、世間のそういう「白眼視」があるから、日本はなんとか「生活保護破綻」しないで済んでいる。
「申請に行ったら、冷たくあしらわれた」「近所の目が厳しい」なんて、ひどい話ではあるけれど、必要な人がみんな受給するようになったら、生活保護にかかる費用は、いまの5倍くらいになると算定されているそうです。


ただでさえ崖っぷちの日本の財政が、それに耐えることはできるのか?


なんのかんの言っても、当事者として、本気で考えれば考えるほど、みんな「怖い」し、「不安」なのだと思います。
でも、それを認めたくないから、「正しさ」を掲げてしまう。


僕はときどき、こんなことを考えます。
いろんな価値観を認めてしまったら、世の中というのはどうなるのだろう?
「そんなの昔からの常識だろ!」と一喝されていた時代のほうが、ある意味、生きやすかったのかもしれない。


「なぜ子どもの泣き声を我慢しなければならないのか?」


内田樹先生が、『下流志向』という著書のなかで、「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いに、こう答えておられます。

答えることのできない問いには答えなくてよいのです。

 以前テレビ番組の中で、「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけをした中学生がいて、その場にいた評論家たちが絶句したという事件がありました(あまりに流布した話なので、もしかすると「都市伝説」かもしれませんが)。でも、これは「絶句する」というのが正しい対応だったと僕は思います。「そのような問いがありうるとは思ってもいませんでした」と答えるのが「正解」という問いだって世の中にはあるんです。もし、絶句するだけでは当の中学生が納得しないようでしたら、その場でその中学生の首を絞め上げて、「はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください」とお願いするという手もあります。

僕が生きているのは、「答えることのできない問いに、答えなければならない時代」なのではないかと考えずにはいられません。
これはこれで快適なことも多いし、もう、昔には戻れないことは、わかっているつもりなのだけど。

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