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いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

出川哲朗さんが語り尽くせなかった「リアクション芸とコンプライアンス」

今年もほとんど観ることができなかったのですが、長男を連れて出かける道中、車の中で音だけ聴いていたんですよ、『FNS27時間テレビ』。
その時間は、「お笑い芸人、本気のプレゼン大会」というのをやっていて、出川哲朗さんが登場してきました。
そこで、出川さんが「リアクション芸人が語るコンプライアンス問題の本質」というタイトルで、なんだか真剣に話を始めたのです。


以下、出川さんの話(録画したものから、大意を活かす形で、大まかに書き起こしています)。

 ぼく、この件について、いつか話をしたいと思っていたので、この機会を与えてくれたフジテレビに、ありがとうございます。今回わたしが話すのは「コンプライアンス問題の核心」です。
コンプライアンスがあるから、最近面白い番組ができないですよね〜出川さん。昔はコンプライアンスがなかったから、無茶ができてよかったですねえ」なんて声を聞きます。
コンプライアンスはわかりやすく言うと「警察」です。
誰か止める人がいないと、テレビは無法地帯になってしまいます。
だから僕は、コンプライアンスが存在するのはおかしいことだと思っていません。


問題は、コンプライアンスとは別のところにあるんです。


ある番組で、僕がいつものアツアツの芸をやりました。
そして卵を噴き出しました。
スタジオはすごいウケました。
そしたらそこのプロデューサーが、「すいません、いまこの御時世、コンプライアンスもうるさいし、卵を無駄にして苦情が来るから、そこをカットしてくれ」と、総合演出さんに言ったんです。
総合演出さんはこう言いました。
「何言ってるんですか。卵はたしかに1個無駄にしているけど、その卵を無駄にしなくてもし食べたら幸せになれるのはたった一人。でも、たしかに卵1個無駄にしたけれども、その無駄にしたことによって、何十万人もの人を笑顔にできたんだから、僕は何を言われようが、この出川さんのVTRを使いますよ」
闘ってくれたんですよ。
オレはその話を後できいて、すごい感動して、なんで闘ってくれたんだ、と。
僕がいちばん言いたいのはここなんです。
だから今から言います。
卵事件があったんだけれど、問題はそのコンプライアンスよりも……


この話を聞きながら、僕もけっこう真面目に考えていたのです。
僕が子どもの頃から、「ケーキを顔にぶつけるようなネタ」とか、志村けんのスイカの早食いとかについては「食べ物がもったいない!」という批判があって、僕はどちらかというと、その「もったいない派」に属して、大人たちに気に入られたい子どもだったのだよなあ。
でも、今になって考えると、確かに、そういうネタに使われる食べ物というのは、そのまま誰かに食べられるよりも、はるかに「有効利用」されている、とも言える。
その一方で、「じゃあ、ネタのために食べ物を祖末にすることすべてが正当化されるのか?」とも思うのです。
出川さんの場合は、「卵を1個無駄にしても何十万人の人を笑顔にできるんだから、この映像を使う」というのは、正しいかもしれない。
でも、「誰も笑わないような、つまらないネタだったら、卵がもったいない」のだろうか?
つまり、「ネタが面白いかつまらないかによって、左右される」ものなのか?
観客の数で、評価が変わるものなのか?


コンプライアンスって、すごく難しいものだと思うんですよ。
「食べ物を祖末にすること自体が不快だ」っていう人だって、何十万人もいるかもしれないし。
「面白ければ、他の人をバカにしたり、傷つけたり、差別したりすることも『ネタ』として許される」というわけでもないでしょう。
もちろん、バカにされている(ように見える)人の合意のもとで、「ネタ」としてオンエアされることはあるのだけれども、「相手も合意しての上でのネタだから」ということで、それは正当化されるのか?


「面白いから正しい」というのは、なんか危険な気がするのです。
僕自身は「面白さ」と「正しさ」は違う評価基準だと思うし。
そもそも、万人にとって「面白い」なんてものはありえない。
笑顔にできる人が、「ひとり」とか「10人」だったら、そのネタは「卵がもったいない」のだろうか。
何十万人かが笑ってくれたら、「イジメのような演出」は、許されるのだろうか。


出川さんをはじめとする芸人さんたちは、「面白さ至上主義者」なんですよね、きっと。
「面白さ」を「正しさ」や「無難さ」より優先してしまう。
出川さん自身も、「自分のなかの行き過ぎてしまう部分」を理解していて、だからこそ「コンプライアンスは必要なのだ」と言っているのです。


出川さんのリアクション芸って、基本的には「危険なものが多い」ですよね。
少なくとも本人の身体のためには、やらないほうがいい。
でも、本人は「覚悟」をして、それでもやる、と言っている。
観客としては、「止める」べきなのか、「本人の意志を尊重して、笑ってあげる」べきなのか。


「笑い」と「正しさ」って、ものすごく相性が悪いんじゃないか、と、あの出川さんのプレゼンを観ながら、考えていました。
そして、この難しい話、出川さんと他の出演者たちは、どうまとめていくのだろう?と。
「笑い」と「コンプライアンス」の話は、グレーゾーンが広すぎる。

……何?カメラ撮れないって、撮れるでしょ、この位置なら!


うわっ!


……と、本気で耳を傾けていたら、出川さんが立っていた床に穴が開いて、出川さんは落下し、熱湯へ。
うーむ、こういう話もネタにしてしまうのが、「芸人としてのプライド」なのかもしれないけれど、個人的には、出川さんのこの「お笑いとコンプライアンス」の話、もっとちゃんと続きを聞きたかったなあ。
どこまで行っても万人が納得する結論なんて出ないのかもしれないけれど、だからこそ、「出川哲朗の意見」を聞いてみたかった。


d.hatena.ne.jp


この新書、芸人さんたちの生きざまに寄り添い続ける「てれびのスキマ」さんによって書かれたものなのですが、この中に、出川哲朗さんの章もあるのです。

「ただ、僕はどんなに痛くてもどんなにつらくても、結果、笑いさえ起きればOKなんですよ。笑いがここで絶対起きるって確信が持てるんだったら、やっぱり行っちゃうんですよね」
 現地の専門家が「絶対ダメだ、絶対落ちるから、危ないから素人はやらせない」と止めるくらい危険な挑戦であっても「絶対大丈夫だから。絶対死なないから。絶対責任は僕が負うからやらせてくれ」と出川本人が説得して決行したことさえあるという。
 また、「笑わせているのか、笑われているのか?」というのもよくある議論のひとつだ。
 芸人は笑わせなきゃいけない。笑われたらダメなんだ、と。果たしてリアクション芸は人を笑わせているのだろうか。それとも、ただ人に笑われているだけなのだろうか。
 そんなことは関係ない。
 出川さんを見て人が笑っている。それこそが「リアルガチ」な笑いなのだ。
「リアル」や「ガチ」という言葉が表層的な意味で手軽に使われてしまう昨今。そのアンチテーゼのように出川は「リアルガチ」と叫んでいるのではないだろうか。
そしてどこまでもリアルガチな出川は「笑いのためなら死んでもいい?」と問われ、あっさりとこう答えている。
「それは嘘でもなんでもなくて、現場で死ねたら一番いいし、死んじゃったら……それはそれでしょうがない」


出川さんが「言わなかった」(言えなかった?)のは、「『事なかれ主義』が蔓延し、コンプライアンスの名のもとに、みんな萎縮し、本当に必要な規制よりも、はるかに手前に『ボーダーライン』を引いてしまったり、クレームがこない番組ばかりつくるようになっている」ということだったのではないか、と僕は思ったのですが、それは、出川さんの口から語ってほしかった。
いやしかし、いくら「現場で死んでもいい」と本人は思っていたとしても、本当に死んでしまったら「笑い」にはならないし、どこかで歯止めは必要です。
「笑い」って、そういう「危険」とか「快・不快」の境界ギリギリにところに、多く生息しているのかもしれない。


最初から、この企画はネタだっていうのはわかっていたはず、なのに。
そして、こういうのって、一度「本当に内心を露わにする」と、笑えなくなってしまうリスクもあるのだろうけど。


いやほんと、この場面以外、ほとんど『27時間テレビ』を観ていないのですけど、この「そこが聞きたかったのに!」というところに限って、はぐらかされてしまうのが、「いまの残念なテレビ」の象徴のような気がしたのです。
それは、テレビだけじゃなくて、ネットもすでにそうなっているのだけど。