いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「あなたのためを思って」

 
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 栗城史多さんの客死に対して、ネットでもいろんなことが書かれています。
 「彼を応援・支援する人たちがいたから、無謀な冒険を続けてしまい、こんな結果になったのだ」
 「ファンが彼を殺し、アンチが生かそうとしていた」


 僕は、彼のファンでもアンチでもなくて、生き方をこじらせた人がいて、それなりに食べていけるというのは、悪いことではないのだろう、というくらいのスタンスでした。
 僕だったら、あのくらいの実力でエベレストに難しい無酸素登頂なんてやろうとはしないけれど、それはあくまでも僕の基準でしかない。
 「そんなことできっこない」ということを実現しようとするのが冒険であるのならば、あれはたしかに「冒険」ではあるし、絶対にできそうもないことを「もしかしたら……」と(失敗することへの期待も半分で)観てしまう、というのは、よくあることだし。


 「彼は、こんな無謀な挑戦をするべきではなかった」
 たしかに、なるべく五体満足で長生きしようということならば、その通りだと思う。
 でも、僕はネット上に掲げられる、その「あなたのためを思って」発せられる言葉に、空虚さしか感じないのです。


 ネットでは、見知らぬ人の生き方や悩みについて、さまざまな「評価」が浴びせられます。
(というか、僕もけっこう浴びせている。正直恥ずかしくなる)
 ちょっと問題があるパートナーとの結婚に対して、「(あなたのためを思って言うけど)そんな男(女)とは別れたほうがいい」と多くの人がアドバイスをしています。
 僕はそういうのを見るたびに、思うのです。
 もしディスプレイの向こうの誰かが、このアドバイスを受けいれて、「別れる」という選択をしたら、その人は、幸せになれるのだろうか?自分の選択を後悔しないのだろうか?
 僕は自分の選択に対して後悔してばかりの人生をずっと続けてきました。そんななかで得た数少ない教訓は、「何か(良いと思うこと)に挑戦してみて失敗した後悔と、そういう何かをやることを思いとどまって、あの時やっておけばよかった、という後悔とでは、後者のほうが、根深いというか、尾を引き続ける」ということでした。
 もちろん、やってしまって後悔していることは、たくさんある。でも、その大部分は、自分のなかでは「処理済」のボックスに入っています。


 「あんな男とは、別れたほうがいい」というアドバイスに従って、実際に別れてしまったとして、その後「やっぱり、あのとき結婚していれば……」と後悔しない人は、そんなに多くはいないはず。
 人間というのは、「自分の選択は後悔しないことに決めている人」と「どんな選択も後悔せずにはいられない人」の2種類に分かれていて、おそらく、後者のほうが多数派だと思うのです。


 どんなに他人が「あなたのためを思って」アドバイスしても、人はそれに従うようにはできていないのだ、と僕は半世紀近く生きてきて感じています。
 人間というのは、やりたいようにしかやらないし、人生というのは、なるようにしかならない。 
 ときどき、自分の人生を劇的に転換してしまう人がいるけれど、それは、他人に何かを言われたからではなく、その人の中から、なんらかの理由で新しく生じてきた「やりたいこと」「やるべきこと」に従っているだけではないか、という気がします。
 

 栗城さんは「無謀」ではあったけれども、彼の生きざまを考えると、説得してエベレストへの挑戦をやめさせたら幸せになれたとも思えないんですよ。
「やっぱり、挑戦しておけばよかったなあ」って、ため息ばかりついて余生を送る姿を僕は想像してしまいます。
 そういう凡庸さこそが人生なのだ、と、いつか悟れる日が来るのかもしれないのだとしても。


「凡人を持ち上げるな」とは言うけれど、イチロー選手や藤井聡太七段だって、100%の成功が約束されていたわけではありません。
 イチローメジャーリーグに移籍する際には「本当に通用するのだろうか?守備・走塁はともかく、打撃はパワー不足ではないか」とみていた人がたくさんいたのです。高校時代のイチローをみていて、ここまで活躍すると確信できた人は少なかったはず。
 藤井七段のような「将棋の天才」でさえも、「高校に進学するかどうか」で悩んでいました。
「将来の日本のエース」と期待された若いサッカー選手が、いつのまにかどこに行ったのかわからなくなることもあるし、プライベートな不祥事で「消えて」しまう人もいる。
「結果が出てみないとわからない」ものなんですよ、基本的には。もちろん、あまりにも無謀な挑戦はやめておいたほうが人生を浪費しなくて済むとは思うけれど。


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1974年8月7日。
在りし日、というか、まだ落成前のワールド・トレード・センターの2つのビル「ツインタワー」の屋上にワイヤーを渡し、「綱渡り」をしてみせた男がいたのです。
彼の名は、フィリップ・プティ
こんなことは、「愚行」ですよね、どう考えても。
でも、フィリップ・プティは、この綱渡りに成功し、「伝説」になった。
大部分の人は、どんな無謀な挑戦も、「結果」が出れば、案外簡単に許してしまう。
冒険家とか探検家というのは、「なんでそんなことをやるんだ?バカじゃねえの?」と言われるようなことをやる人たちです。
「芸人」とか「芸能人」「格闘家」とかもそうかもしれない。
それを命がけでやることが「生きがい」の人が、自分の力で多くの人の協力を得てやる「愚行」を止める権利があるのだろうか。
ある意味「仮想通貨であなたも大金持ちに!」とか、もうピークは完全に過ぎている無謀な投資をすすめる人よりも、他者にとっては、よっぽどマシではなかろうか。
どんなに「すごいなあ、憧れるなあ!」と思っても、本当にエベレストに登ろうとする人は、ほとんどいないはずだし、本当にそこまでたどり着く人は、もう誰のせいでもないと思う。


栗城さんは「登山の世界のトッププロ」とは言い難いけれど、「登山というものの新しい解釈」で世間にアピールしていた人です。
個人的には「山師」「ライフスタイルネズミ講」みたいであまり好きではありませんでした。
でも、便器に『泉』という名前をつけて、現代アートの転機をつくったマルセル・デュシャンだって、他の「真面目に作品をつくっている」アーティストたちには、そう見えていたのではなかろうか。


僕は「あなたのためを思って」という言葉を使う人を、基本的に信用しないことにしています。
実際、本当にこちらのことを考えてくれている人の言葉には、そんな前置きなんてなくても伝わるから。
わざわざそんな前置きをする人は、「あなたのことを思っている自分」をアピールしたい、あるいは、自分の正しさを誰かに押し付けたいだけだと思うから。


ただ、こういう事例に対しては、みんなすっきりしないものを抱えつつ、「何か」を言いたくなる、というのもわかるというか、僕自身がそういう心境なわけで、「あなたのためを思って案件」を含めて、こうして話題にすることそのものが、いちばんの「おくやみ」なのかな、なんて考えてもいるんですよね。
大部分の人は「穏やかだけれど、起伏もドラマもなく、いつのまにか死んでしまう人生」を愛していて、そして、同じくらい憎んでいる。
「あなたのためを思って」他者に言及することによって、少しでも、あまりにも無色な自分の人生に色をつけようとしているのかもしれない。
「そういうふうにしか生きられない人」を安全なところから眺め、ときには称賛し、ときには批判して、なにかの穴埋めをしている。



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漫画 君たちはどう生きるか

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