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いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

身体を鍛えても優しくはなれないかもしれないけれど、優しい人であり続けるためには、基礎体力が必要なのだと思う。

anond.hatelabo.jp


このエントリを読んで、最初に僕が思い浮かべたのは、この言葉でした。

”If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.”
(強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる価値がない)


レイモンド・チャンドラーが生んだ、タフな私立探偵・フィリップ・マーロウ
彼のこの言葉は有名なのですが、どの作品に出てきたのかな、と調べてみると、チャンドラー最後の作品となった『プレイバック』のなかで、マーロウが、ある女性に
「どうしてあなたのような強い男が、そんなに優しくなれるの?」
と問われたときの答えだそうです。


僕は子どもの頃から運動音痴、運動嫌いで、40過ぎまで、運動する習慣がほとんどありませんでした。
大人になって良かったことのトップ5のなかに「体育の授業がなくなったこと」を挙げたいくらいだったのですが、その一方で、切実に思うのです。
もうちょっと運動をしておけばよかった、って。


いや、インターハイに出られるようなスター選手になるなんて、そういう話じゃなくて、ジョギングとか水泳とかを定期的にやって、基礎体力をつけておくべきだったと後悔しているんですよね。
その後悔は、年を重ねるにつれて、深まっていくばかり。


世の中には、「あまり身体を使わなくてもよさそうな仕事」って、ありますよね。
僕は、医者というのもそのうちのひとつだと思い込んでいたのですが、それは、大いなる誤解でした。
医療というのを仕事にしてみて痛感したのは「体力がないと、心に余裕がなくなる。そして、人に優しくすることができなくなる」ということでした。
いやほんと、キツいんですよ、臨床医の場合、若手はとくに、自分の都合で仕事をコントロールできないし。
当直で一睡もできないような夜もあれば、仕事の合間を縫って、発表のためのデータ整理やスライド作りをしなければならないこともある。
でも、眠らないとやっぱりキツいし、体力が落ちてくると、イライラしたり、判断力も低下します。
僕が「もうダメだ……」とぐったりしているときでも、部活をバリバリにやっていた連中は、「まだまだ!」って、もう一踏ん張りできていました。
もちろん、性格とか精神力、っていうのも大事なファクターなんだけれど、それも、「体力」あればこそなんですよね。
「体力」と「頭脳」は別物のように考えてしまいがちだけれど、脳だって人間のパーツのひとつです。
ものすごく勉強ができるのに、体力的についていけなくて、最前線から離脱していった人を僕はたくさんみてきました。
というか、僕自身も、寝不足だったり、疲れているときには、優しくなれない。
自分でもわかっているのだけれど、体力的なキャパシティを精神力や努力で補い続けるのには限界があります。


ある意味、身体を使う仕事って(スポーツ選手みたいに、そのなかでもナンバーワンを目指すような世界は別として)、みんな体力があるのは当たり前、なんですよね。
逆に、「体力は関係なさそうな世界」では、「技能とか頭脳」みたいなものは、みんなそんなに大きな差がなくて、身体の強さとか、体力的な余裕がモノを言うのです。
それは、スポーツの「上手さ」ではなくて、「脳を動かしたり、イレギュラーな出来事に対応したりするための電池の容量」みたいなものです。


村上春樹さんがマラソンやトライアスロンをずっとやっていることはよく知られていますが、僕は最初、なんで作家がそんなにマラソンにこだわるのか、ピンとこなかったのです。
でも、今ならわかる。
長い小説を書ききれない人は、「書く技術や精神的な持続力の問題」だと思い込みがちだけれど、実際には「体力がない」ことが要因の場合が、少なからずあるのではなかろうか。


2000年に発生した雪印の中断食中毒事件の際に、マスコミに対応していた社長が「私は寝てないんだ!」と「逆ギレ」して大バッシングを受けましたが、僕はあれをみて、「ああ、本当に疲れていたんだろうなあ」と内心同情してもいたんですよね。
社長という立場からすれば、やはり許されない態度ではありましたが、「寝ていない」「眠ることが許されない」という状況は、本当につらいものです。
医者だから、というのではなくて、毎晩夜泣きをする赤ん坊がいる家でも似たようなことはあるはず。


「寝不足に耐える力」と「運動部で鍛えた体力」は、必ずしもイコールではないのかもしれませんが、僕の経験上は、基礎体力がある人のほうが、そういう状況でも耐えることができやすい、という傾向はありそうです。
講演とかで登壇している高名な教授も、学生時代、なんらかの部活で活躍していたり、偉くなっても運動の習慣を持っている、という人が多いんですよね。


身体を鍛えれば優しくなれるわけではないけれど、キツいときでも優しさを保つためには、基礎体力というのは必要不可欠なのです。


さて、ここでようやく冒頭のエントリに戻るのですが、この増田さん(「はてな匿名ダイアリー」の書き手)の昔の姿は、「優しい」と言われることが多かった僕自身の若い頃と重なってみえるのです。
当時の僕は、優しいというか、ナイーブというほうが合っていたのかもしれませんが、今から考えると、単に「自信も体力もないから、そういう方向じゃないところで勝負してくれ」と懇願するだけの人間だったような気がします。
「僕は武器を捨てるから、あなたも捨てなきゃダメですよ、ね」みたいな。
平和主義はけっして悪いことじゃないけれど、現実的には、最低限の覚悟と準備があるにこしたことはない。
それは、「話がわかる相手」にしか通用しないものだから。


身体的に強くなってしまうと、やっぱり、「弱かったときの自分」と同じ立ち位置で生きるのは難しい(のでしょうね)。
自分は力がある、と思うと、それを隠して交渉するよりも、見せびらかして圧力をかけたり、「自分は強いんだ」と自己暗示をかけたりするのは、普通のことなのだと思います。
むしろ、そういう自信がつくことが、体育で「優」をとることよりも、メリットは大きいのではなかろうか。
たぶんそこで大事なのは、その「自信」をどこに向けていくか、ということなんですよね。
他人に圧力をかけたり、優越感に浸ったりするのは、あまり有効な使い方ではなさそうです。
どんなに強い人でも、マシンガンには敵わない。
ラオウとかなら別かもしれませんが、あれは漫画だからさ)
その力を過信し、間違った方向に行使してしまったがために、たくさんのものを失ってしまった金メダリストもいました。
僕は「運動音痴」として、たくさんの「体力がある人」をみてきましたが、必ずしも体力と人格は正比例するものではありません。
スポーツができる嫌なヤツなんて腐るほどいるし、逆もまた然り。
ただ、基礎体力が劣ると、極限状態で正気を保つのが難しくなる、これだけは間違いないと思います。
平和な社会、余裕のある仕事では、あまりその差は目立たないかもしれませんが。


僕は増田さんが書いているドランクドラゴン鈴木拓さんの発言、そんなにおかしいとは思わないんですよ。
僕は、体力的に自信がないために、「怖そうな人」に遠慮したり、屈服したりすることがありました。
そして、相手を憎み、「弱いから、怖いから妥協してしまう自分」を責めずにはいられなかったのです。
でも、「自分はコイツの生殺与奪をコントロールできる立場にある」と思えば、同じ「相手の言う事に従う」にしても、「まあ、今日は勘弁してやらあ」みたいな気持ちになれるのではなかろうか。


それは「傲慢」であり、「優しくない」と思うかもしれないけれど、自分が傷つくことを恐れて言いなりになってしまう状況から、ようやく脱出できたというのは、すごいことなんですよ、たぶん。
あとは、その「力」をどう使うか。
他人を傷つけるために使えば、単なる「暴力」だし、困っている人を助けたり、自分がより良く生きるために使ったりできれば、それは「優しさ」になるのだと思います。
「力」の意味は、使い方次第で変わる。


増田さんは、「自分は体力的に自信がついても、弱い人間なのだ」と書いているけれど、そういうふうに自分を律しようとするってすごいな、と僕は感心してしまいます。
多くの人は、自覚もなく、抜き身の刀を振り回しているというのに。
そういう「弱さ」を意識しているのなら、その力をコントロールすることは、不可能ではないはず。
いまは、『機動戦士ガンダム』の第1話のアムロ・レイみたいなものですよ。
いまは思ったように動かなくてもどかしいかもしれないけれど、増田さんは、ガンダムを、きっとうまく操縦できるようになる。


まずは「心」や「優しさ」を変えるより、「自分が以前接していてイヤだと感じていた身体的に強い人と、同じことはやらないようにする」で十分なはずだと思うのです。


というわけで、もう手遅れかもしれませんが、僕も最近運動しています。ほんの少しだけど。




こちらは随時更新中の僕の夏休み旅行記です。有料ですが、よろしければ。
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