いつか電池がきれるまで

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2012-02-22

3歳の息子が「かさじぞう」から学んだこと

3歳の息子は寝るときに、僕か妻に「おはなしして~」とねだります。

昨日は、妻が息子に、この「おはなし」をしていました。

 

参考リンク:「かさじぞう」(民話・むかし話のページ)

 

僕もこの「かさじぞう」子どもの頃に聞いたことはあったのですが、この年になってみると、なんだかすごく心にしみます。

 

がんばってつくった「かさ」がひとつも売れず、打ちひしがれたおじいさんが、それでも雪に埋もれている「お地蔵さん」をみて、「寒そうだから」と、かさをかぶせてあげるなんて、おじいさんは本当に優しいなあ。

「経済的な困窮」が、心をささくれ立たせることを知っている僕は、息子よりも、このおじいさんの行為の素晴らしさを実感できます。

もっとも、この物語が生まれた時代では、単なる「やさしさ」だけではなく、「信仰心」の大切さも伝えたかったのでしょうけど。

 

この「かさじぞう」のおはなしを聞いた息子の感想。

「じゃあ、こんどぼくのいちばん要らないおもちゃを、おじぞうさんにあげるね。そうしたら、きっとすごく良いおもちゃをいっぱい持ってきてくれるよね!」

 

……お前は、おとぎ話の典型的な悪役キャラだな……

 

まあ、こういうのが「子どもの率直な感想」なんでしょう。

自分が大人になると、けっこう忘れてしまっているものですね。

2012-02-18

「他人を失望させること」への恐怖

映画『ドラゴン・タトゥーの女』のなかで、とても印象的なセリフがありました。

主人公と2人きりになった、ある登場人物が、こう言ったのです。

「人間というのはおかしなものだ。怖いという感情を抱いていても、他人の機嫌を損ねないように行動してしまう」

伊集院静さんが、『大人の流儀』というエッセイ集のなかで、こんな話をされています。

 当人がどれだけ注意していても災難の大半は向こうからやってくる。交通事故と同じだ。

 スイスの登山鉄道、ユタ州の自動車事故と楽しいはずの海外旅行での悲劇が続いた。

 自動車事故の方は原因がまだはっきりしないが、運転手の過労による運転が取り沙汰されている。同業者の弁で、何度か車が右に左にゆれるように走ったと言う。

 このことが事実だとしたら、なぜ誰かがその場ですぐに運転手に注意しなかったのか、それが私には解せない。

 時々、私は遠出のときやゴルフで車を手配されることがある。『その折、運転が危険だったり妙に思えると即座に運転手に訊く、

「君、疲れているのかね」

「い、いいえ」

 それで運転が直らなければ高速道路だろうが、山の中であろうが、

「君、車を止めなさい」

 と言って下車し、タクシーなり別の交通手段を選ぶ。これがもう三、四度あり、口では言わないが、その車を手配した会社とはなるたけ仕事をすまいと決めている。

 一人旅より、団体旅行の方が事故が多いのは、旅に危険はつきものだという根本を忘れがちになるからだろう。

 よく旅慣れているのでという年輩者がいるが、それは団体旅行で慣れているのが大半で、危険が近づいていることにすら気付かないで来た人がほとんどだ。

この話を読んだとき、

「そうだよなあ、めんどくさがって、自分をムダに危険にさらすようなことはないよなあ」

と頷いたものでした。

「めんどくさい」は、敵だ。

でも、何かちょっと違和感があったのです。

それって、「めんどくさい」だけが理由なのだろうか?

ドラゴン・タトゥーの女』のこの場面を観て、僕はわかったような気がしました。

ああ、そういう場面で、僕がタクシーを降りられないのは、「見ず知らずで、今後一生会う機会もない、しかも運転手と乗客という関係である人でさえ、 「相手の機嫌を損ねるのが怖い」のだな、って。

僕たちは、ずっと教えられてきました。

「相手の身になって考えましょう」

「人には優しく、誠実に接しましょう」

それは、すごく正しいことなのだと思います。

しかしながら、その積み重ねが「他人を失望させることへの恐怖」になってしまっていて、危険回避能力を低下させているのかもしれません。

「相手に嫌われることになっても、断ったり、逃げたりしなければならない場合がある」

世の中には、「他人の機嫌を損ねたくない人」の中途半端な優しさを利用して、言いなりにさせようとする人間がいる。 それは、知っておくべきことです。

「嫌われる勇気」の有無が、あなたの生死を分けることもあるのだから。

2012-02-08

バリ島の「石像屋」の話

去年の夏、バリ島に行ったときの話。

バリ島には、日本の「石屋」みたいな店が大きな通り沿いにたくさんあって、そこには、仏像や動物の像らしきもの、日本のお墓みたいなものが、並んでいたのです。

ああ、この島では、まだ「伝統」が生きているんだなあ、ボロヴドゥールの仏教遺跡がある国だものなあ……

それとも、観光客が、この石像を買って帰るのかな、でも、持って帰れるような重さじゃないし、送ってもらうにしても、運賃が大変そう……

そんなことをずっと考えていました。

 

それで、帰り際に、現地ガイドさんに聞いてみたんですよ。

石像を売っている店がたくさんありますけど、あれって、商売になっているんですか?って。

「ああ、ああいう石像の大部分は、現地のリゾートホテルが買っているんですよ。『バリ島らしさを演出するため』に」

 

「伝統工芸」には違いないのだろうけれど、「伝統を守っている」というよりは、「現代的な空間のなかで、伝統を演出するために、続いている」のですね。

バリ島が昔のままではないからこそ、商売になっている「伝統工芸」。

それを「ああ、バリ島らしいなあ」と嬉々として観ている僕のような観光客。

世の中というのは、いろいろと矛盾に満ちているものですね。

2012-01-29

『ゲーセンで出会った不思議な子の話』は、なぜこんなに読まれたのか?

ゲーセンで出会った不思議な子の話:哲学ニュースnwk

 

いまさらながらこの話。

 

でも、今回は趣向をちょっと変えてみたいと思うのです。

 

「フィクションなのに、フィクションだと宣言していない」ことと、「フィクションとしては、レベルが低い。面白くない」ということで批判されたこの『ゲーセンで出会った不思議な子の話』なのですが、僕はなんとなく納得がいかなかったんですよ。

 

この話、たしかに「難病悲恋モノ」としてあまりにもありきたりなストーリーだし、ふたりの行動も「どこかのドラマで観たようなもの」ばかり。ディテールも甘い。

 

しかしながら、この話は、多くの人に「ウケた」のです。

 

 

 

それは、なぜだったのか?

 

 

 

今回は、『ゲーセン少女』のどこがそんなに良かったのか?を素直に考えてみたいと思います。

 

 

 

(1)舞台設定

 

「ゲーセン好き」って、「文楽好き」ほどマイナーじゃないけれど、合コンで(って、僕も合コンって2回しか行ったことありませんが)「趣味は何?」って聞かれて、「ゲーセン通い」とは言い難いくらいのややアンダーグラウンドな「趣味」じゃないですか。

 

マイナーな趣味の人っていうのは、「同じ趣味を持っている人」への「共感度」が、メジャーな趣味を持っている人同士よりも高くなります。

 

昔は「パソコン通信で出会ったというだけで、かなりの親近感を抱いてしまう」なんて時代もありました。

 

でも、「ゲーセン」っていうのは、たぶん、そこが好きな人たちが思っているほどマイナーな場所じゃないし、大部分の人は「一度くらいは行ったことがある場所」のはずです。

 

この舞台設定が、いまの時代においては「絶妙」でした。

 

「テニスコートで出会った男女」だったら、僕は絶対すぐ読むのをやめてました。

 

いま、ゲーセンが「斜陽」であることは多くのゲーム好きは認識していますし、その「斜陽感」が、この『ゲーセン少女』の世界観には合ってもいたんですよね。

 

 

 

(2)小道具の使い方

 

「彼女と会っているときに流れていた曲なんて、いちいち覚えているわけないじゃないか」

 

僕もそう思います。ただし、いろんな人が書いた本を読んでいると、「記録魔」というか「日記にその日の出来事を詳細に記録している人」なんていうのもいるので、必ずしも、それだけで「診断」はつきません。

 

この文章で印象的だったのは、曲の使い方でした。

 

10-FEETの『ライオン』

 

藍坊主の『テールランプ』 etc……

 

僕はこれらの曲を聴いたことがありません。

 

でも、「聴いたことがある人はある名曲」「いかにもサブカルな人が聴きそうな雰囲気の曲」であることが、周囲のり伝わってきます。

 

ミスチルとかファンキーモンキー・ベイビーズだったら、「ちょっと違った」ような気がするんですよこれ。

 

そういう「微妙なリアリティ」というか、サブカルの「なんとなく、クリスタル」な感じというか。

 

ゲームというのも「好きな人にとっては、題材として出てくるだけで、ちょっと嬉しくなる小道具」なんですよね。

 

 

 

 

 

3)主人公の設定

 

主人公は「友達がいない、絵が好きだけど、それで食えるほどの実力もない大学生」。

 

ネットをやっている人には「共感されやすい存在」だと思われます。

 

そんなにカッコよくない男が、個性的で自分を引っ張って行ってくれるような女性と出会い、翻弄されるというのは、まさに「王道」。

 

 

 

 

 

(4)「2ちゃんねるに書かれていたこと」

 

本ができるプロセスとして、僕たちは「作家が机に向かって(あるいは、パソコンに向かって)書いている姿」を想像します。

 

テレビドラマや映画の場合は「撮影現場」でしょう。

 

これらは、作家とか俳優・監督のような、「特別な人」によってつくられています。

 

では、「2ちゃんねる」(もしくは、ネット一般)に書かれているストーリーが綴られている光景を想像してみてください。

 

多くの人は、「自分と同じような人が、ひとりで、パソコンに向かってキーボードをたたいている姿」を思い浮かべるはずです。

 

ネット上では、送り手と受け手はフラット、あるいはそれに近い関係である、というイメージは、まだまだ強いのです。

 

2ちゃんねる」というのは、「ちょっとしたうしろめたさ」を共有している空間でもありますから、なんとなく「仲間意識」もある。

 

「友達の打ち明け話」を聴いているような気分、あるいは、土曜日の夕方にウェイティングバーで「ちょっと聞き耳を」立てているような気分になりがちです。

 

実際には、作家志望のオッサンがニヤニヤしながら、「ここでちょっと忙しいことにして、間をあけてスレが盛り上がるのを待つか」なんてつぶやきながら、缶ビールをあけているかもしれないのに。

 

 もっと言えば、ネット上の「実話系の空間」では、表現の拙ささえ、「リアリティ」につながる場合もあるのです。

 

だって、「自分と同じような人」が、そんなに文章うまいわけないのだから。

 

そして、物語が綴られる過程をリアルタイムで体験することによって、自分が見出した物語のような錯覚も起こしてしまいます。

 

 

 

 

 

(5)「フィクションだと明言されていないこと」

 

これで「実話だと信じてしまった人」も多かったのでしょうね、きっと。

 

ただ、もしこの文章の冒頭に「フィクションです」と書いてあったとしても、多くの読者は「実話に基づく、あるいは、同じような体験をした人が書いたのだろう」と勝手に想像した人は多かったのではないかと思います。

 

2ちゃんねる慣れ」していない人は、なおさら。

 

だからといって、「これまったくのウソ話ですからね。信じちゃダメですよ!信じるヤツはバカ!」とまで書く人はいないでしょうし。

 

(実際にそう書いてあったら、かえって裏を感じて、「実話」なのではないかとか勘ぐってしまいそうな気もするくらいです)

 

僕自身は、「フィクション宣言していないこと」だけが、この物語がこれほど読まれた理由だとは考えていません。

「フィクション宣言していないフィクション」にもかかわらず、歯牙にもかけられない物語は「2ちゃんねる」にもたくさんありますしね。

 

 

 

【考察】

 

やっぱり、「モテない男にかわいくてちょっと個性的な彼女が!」っていうのは「非モテ男ロマンの常道」ですし、「永遠の愛」というのは女性の大好物です。

 

(で、死んだあとに不倫告白の手紙が見つかったりするわけですね。僕はあの映画を観るたびに、「夫がかわいそうすぎる……」としか思えないのですが)

 

その「王道ストーリー」をこの(1)から(5)のような「ヘビーネットユーザーにウケるためのテクニック」を駆使してブラッシュアップしているわけですから、『ゲーセン少女』は、そんなに低レベルの作品ではないと思います。

 

少なくとも、「インターネットで多くの人に読んでもらうための手練手管」は尽くされています。

 

それが狙って行われたものなのか、偶然の結果なのかはわかりませんが。

 

そういう「マーケティング的なやりかた」が嫌いだ、というのはわかります。

 

でも、そういう「ネットで公開される文章としての性格」を踏まえての工夫も含めて考えれば、「レベルが低い」「こんなの読んで感動するヤツはバカ」と切り捨てられるような作品でもないな、というのが僕の結論です。

 

 

この『ゲーセン少女』が多くの人に読まれたという事実は、これから「ネットでたくさんの人に読んでもらえるものを書こう」という人にとって、けっこう参考になると思います。

こんな「重い話」ばかりになってしまっては、読むほうとしてはたまりませんけど。

 

2012-01-25

「ウソ」が大嫌いなインターネットの聖人たちへ

「ウソは泥棒のはじまり」だと言う。

 もちろん、ウソは悪いことだ。

 僕だって、つきたくも、つかれたくもない。

 しかし、「絶対にウソをつくことが許されない世界」というのは怖くないだろうか。

 

息子は、3歳になった。

家の中でかくれんぼをしていて、「あっ、○○くんだ!」と僕が言うと、息子は「ちがいます。ライトニング・マックイーンです!」と答えた。

このウソつき!

 

でも、僕は、息子がウソをつけるようになったことが、少しだけ嬉しかった。

こいつは、この世の中で生きていくための、小さな一歩を踏み出したのだ。

 

もちろん、すべてのウソを許しているわけじゃない。

人を傷つけるようなウソには、「そんなウソをついちゃダメ」と言っている。

 

絶対に、ウソをつかない子供たちがいる。

その子供たちは、「ウソをついてはいけない」という宗教の教義に忠実な親に育てられてきた。

ウソをついたら、「地獄に堕ちる」と、徹底的に罰を与えられる。

そのうち、子供たちは打ちひしがれて、ウソをつかなく(つけなく)なる。

その子供たちは、そんな背景を知らない周囲の親から、「おとなしくて、手のかからない良い子」とみなされる。

 

この子供たちは、「ウソをつかないから、正しい」のだろうか?

 

ウソはよくない。そんなのは当たり前だ。

どんな宗教でも道徳でも、「ウソと(聖戦とみなされるもの以外の)殺人」は、「いけないこと」だと教えられる。

でもね、人間、生きていたら、ちょっとしたウソをついてしまうことはある。

酷い場合は、それで他人を傷つけたり、信頼を失うこともある。それは仕方がない。自業自得だ。

それでも、「他愛のないウソ」にまで目くじらを立られ、直接関係のない人にまで強く責め立てられるような社会が「正気」だとは、僕にはどうしても思えないのだ。

どんなウソもカルト宗教につながっている?

そんなことはない。

むしろ、「他愛のないウソさえ許さない空気」をつくるのが、カルト宗教のテクニックなのだ。

 

そもそも、これだけウソがあふれている社会で、「ウソなんて絶対ダメ」だと純粋培養された人間は、どう生きていけばよいのだろうか?

「ウソは泥棒のはじまり」だと言う人がいる。

でも、「どんなウソだって、泥棒につながっている」わけではない。

それを忘れてはいけないのだ。

「俺はウソなんてつかない」という人間ほど、ウソつきなヤツはいない。

 

僕はウソが嫌いだ。

でも、他愛のないウソさえ許さない世界は、もっと嫌いだ。

2012-01-02

『トリビアの泉』は、なぜ「劣化」したのか?

 『トリビアの泉 10周年スペシャル』を観た。


 この番組の大ファンである僕としては、新作は観られたのは嬉しいけれど、今日の内容は、ちょっと物足りない感じ。

 先日放送されていた「10周年スペシャルの宣伝も兼ねた総集編」は、滅法面白くて、テレビの前で珍しく大笑いしてしまったのに。

 裏があの『家政婦のミタ』の最終回だったのが、かわいそうでしょうがなかった。

 あの年末の総集編に比べると、今日はなんか、笑いどころがなかったんだよなあ。

 今回は、「トリビアの種」が番組の主力になっていたのだが(レギュラー形式が終わってからは、ずっとそうなのだけど)、スケールの大きさだけで面白い映像になるわけじゃないんだよなあ、こういうのって。

 もちろん、「100メートルの高さから人が落ちてきてのシーソー」や「ヘビ花火」みたいに、「事前に期待していたほど、面白い結果にならなかった実験」が多かったのは事実なのだろうし、うまくいかないのもそれなりに味があって楽しめるものではあるのだが、僕の好きな「トリビアの種」って、「飼い主が散歩中に突然倒れたら、犬はどう行動するのか?」とか、「最強SP対日本一の小学生ドッヂボールチーム」みたいな「バカバカしいけれど、結果がすごく気になるネタ」なんだよね。

 今回の「トリビアの種」は、「すでにあるものを、ものすごくスケールアップしてやってみたらどうなるか?」というものばかりで、お金と手間はかかっているのかもしれないけれども、「アイデア」が不足していた。

 石原さとみの唇っていうのも、いちばん大事な「さわった感じ」は、テレビでは伝わってこないんだよなあ。

 モテない男子校生だった僕が、『タッチ』を観ながら、「こんなかわいくて性格も良い同級生の女の子が隣の家に住む幼なじみなんて話が、現実にあるわけない!」と毒づいていたのが「事実」だったのはちょっと痛快ではあったのだけどね。

 その一方で、あのマンガのファンで「タッチの真似をしようとした親たち」が、もしかしたらいるかもしれない、と思っていたんだけど。

 

 最後の「この続きは番組ホームページで」っていうのも、ずっとテレビを観ていた人たちをバカにしている。
 そんなのテレビで「前フリ」なんてせずに「番組ホームページで、おまけトリビアを公開します!」で良いじゃないか。


 お正月だし、ネット環境がある家ばかりじゃないのに、24時間限定公開っていうのも、なんだかなあ。

 

 まあ、『トリビア』は、毎回すごく面白いという番組ではなかったし、こうして新作がつくられただけでも、喜ぶべきことなのだろう。

 いまの日本の状況として、制作費が十分じゃない、というのもありそうだし。

 

 今回の『トリビアの泉』は、僕にとって、ちょっと残念な内容だった。

 「遊び心」や「アイデア」の不足は、セットを大きくすることだけでは補えないのだ。

2011-12-26

30代の10年間を振り返る

  

 うーん、なんだかまだ有馬記念ショックが抜けきれず、年賀状も書いていないまま年を越してしまいそうなのですが、とりあえず30代最後の日に、「30代とは何だったのか?」と回想してみる。

 

 そういえば、30歳になった日って、「あーもう30なんてイヤだなー」と思ったのと同時に、「これであと10年は、30代のままだからラクだなー」という気分でもあったんだよね。

 うーむ、10年って早いや。

 

 この10年、自分は何をやってきたのだろう?と思うと、なんかもう、情けないやら恥ずかしいやらで、正直、自分の意思で何か新しいことをひとつでもやっただろうか?と考え込んでしまう。

 

 その一方で、個人的には、比較的平和で安定していた10年ではあった。

 20代の後半には、両親が相次いで亡くなったり、職場でうまくいかなかったりして、なんかもうどうでもいいや、って感じで生きていたのだけれど、35のときに結婚して、子供も生まれて。

 夫として、親として、自分の視野が広がったと思うところはある。

 とくに子供が生まれてから、「自分の時間って、本当に大切なものだったんだな」とは感じるし、家族や社会に対する責任みたいなものに息苦しくなるときもある。

 夫婦生活っていうのも、お互いに仕事も育児もちゃんとしようとすればするほど、どうしようもなくなってしまうときがあるしね。

 正直、もうちょっと若いうちに子供をつくっていれば、今頃は、もっと自分に余裕があったのかな、とも思う。

 どう考えても、いま息子は3歳だから、60までは働かざるをえないものな。

 

 

 そんな大人の悩みを抱えつつも、有馬記念で超スローのクソレースを見ると半日寝込んでしまうし、ネットで叩かれるとムカつくし、人間って成長しないものではある。

 

そうそう、この10年の変化としては、パチンコをほとんどやらなくなったこと、ゲームをやる時間が激減したこと、雑誌の占いに全く興味がなくなったこと、などが挙げられる。

あと、恋愛的なものは、さらにどうでもよくなった。

 

30代にやっておいてよかったことは、とりあえず結婚したことと親になれたこと。そして、けっこう本を読んだこと。

30代でやっておけばよかったことは、もうちょっと体を鍛えておけばよかったというのと、もうちょっとまとまったものを書きたかったな、ということ。

 

これから30代を迎える、あるいはいま30代という人も多いだろうけど、30代では、ネットはあまりやりすぎないほうがいい。本当に、かけたコストに比べると、残るものが少ない趣味だから。

僕の体験してきた30代の趣味としては、割に合わない順番に、

 

パチンコ<<競馬<飲酒<ネット<テレビゲーム<映画鑑賞<読書

 

という感じ。

もちろん、これは個人差があるはずだ。

だが、そんなに間違ってはいないと思う。

僕はスポーツは潔くやらないことにしているが、インドア系の趣味としては、まずは「金が絡まないこと」が第一、「人と関わらずにできること」が第二要件だと思う。

 

金は人を変える。

そういうことをあらためて思い知らされたのも、30代になってからだった。

 

本当に、30代は短い。

僕の失敗として、みんなに伝えておきたいことは、30代というのは、自分から何かをしようとしないかぎり、何も新しいことは始まらない年代だということだ。

20代であれば、環境に流されても、何か新しい場所に立っている可能性はある。

40代になれば、新しいことをしようとせず、環境に順応していくのも、ひとつの生き方だし、そのほうがいいのかもしれない。

 

30代というのは、何かをしようと思えばできるし、思わなければできない。

そんな大きなターニングポイントだったのだ。

でも、「自分から何かをやろうとする」というのは、言うのはたやすいけれど、実際にやるのは本当に難しい。

日々の仕事はあるし、子供は夜泣きする。

家事の分担について、険悪なムードにもなる。

 

 

最後に、この10年間で、ひとつ大きく変わったことがある。

それは、「生きるのが、少しだけラクになった」ということだ。

そういうのは、「よりよく生きる」ことへの諦めなのかもしれないな、と思うこともあるけれど、たぶん、良い変化なのだろうと信じている。

 

さよなら、30代。

そして、はじめまして、40代。

たぶん、40になった途端に、「あと10年は50代にならなくてすむ」とか「福山雅治だって、もう40代!」とか思っちゃうんだろうけどさ。