この記事を『はてなブックマーク』で見つけたときには、僕も「イオンモールしかないような田舎」でずっと生活しているので、「お高くとまりやがって!」みたいな苛立ちを感じたのです。
でも、内容を読んでみると、「美術」とか「アート」だと都会で語られていること(あるいは「文化人、文化的だという人々)の「生活感のなさ」というか、「地に足がついていない感覚」への自省、みたいなものも伝わってきたのです。
そもそも、「アート」って、何なんだろうね。
僕は50年以上生きてきて、日常がつらかった、ということもあって、かなりアートやエンターテインメントに時間を費やしてきました。
それは、美術展や演劇、音楽といった「イベント」的なものから、テレビゲームや映画、本といった、日常的な娯楽まで、さまざまな形をとっていたのです。
思えば、僕が子どものころ、いまから40年くらい前は、ちょっとマニアックな小説とかコンピュータに関する書籍を地元の書店で買うことは難しく(書店で注文すればよかったのかもしれませんが、学生時代には、それもなんだか敷居が高くて。「こんな本を読むのか」とレジの人に思われることすら怖かったのに、客注となると、それが長期間続くわけですから。マイコン雑誌を書店で買うのも緊張するような子どもだったんですよ本当に)、まだ博多の天神コアに紀伊国屋書店があった時代に、そこで年に何度か買い物をするのが至福の時間でした。
あの書店、エレベーターの近くに英語の教材かなんかを売っているブースがあって、その前をスルーして通るのに緊張していたのを思い出します。
ああいう、ショッピングモールの入り口で募金、とか、TSUTAYAの入り口にたこ焼き屋とかは、今でもすごく苦手です。
あれから30年とか40年とか経って、インターネット時代になると、東京と地方都市の「物質的な格差」は、かなり小さくなったと感じます。
どんなに大きな書店でも、Amazonに品揃えはかなわない。
知らなかった本に偶然興味を持つ、という確率は、大きなリアル書店のほうが多いし、書店員さんの「これ面白いよ!」という主張を感じる中小書店は大好きなのですが。
東京の「大きさ」は、たまに行くと、地方都市住まいにはつらいところも多い。
どこに行くにも車でさっと行くことができず、けっこう歩かなければならないし、すぐに行列ができる。物価は高い。とくに「ちょっといいもの」は、すごく高くなる。その一方で、ものすごく安いものもある。
地方都市では、自宅から車で出勤し、仕事をして、また車を運転して帰宅すれば、ほとんど「公共交通機関」を利用しなくて済むし、人の目をそんなに意識することもない。
満員電車のストレスもなく、人込みをかき分けて歩かなくていい。
電車で痴漢にあうことも、痴漢えん罪に怯えることもない。
タワマンとかも、階数が高いほど家からの出入りにかかる時間も増えるわけで、高層階だとかなりめんどくさいのではなかろうか。
ちょっと近くのコンビニへ、なんていうのも、けっこう大変そう。
だからウーバーイーツ、とかになるのかな。
なんというか、僕が想像するような「セレブの生活」には、案外、体力とか気力が必要ではないだろうか。
正直、「モノ」に関しては、ネット時代には、東京の優越性はかなり低下しているように思われます。
ただ、東京って、毎日のように、何かの舞台とか演芸とかイベントとかをやっていて、それらのなかで、規模の大きなものや成功したものが地方都市にやってくるのです。
逆に言えば、「成功例」は、地方都市でもかなり観ることができるのだけれど、それがまだうまくいくかどうかわからない「芽」のような段階で観ることができるのは、東京の特権なのかもしれません。
僕も高校時代、「一度は東京で生活してみたい、『ログイン』とか『ファミ通』の編集部でアルバイトとかできないかな……」とか夢想していました。
当時は、文化的な格差も感じていたし、ちょっと変わった人やマイノリティな趣味も、東京なら受け皿があるような気がしていたのです。
結局、学力的な問題もあって、僕は地元の地方都市の大学に入り、そのままずっと人口数万から数十万くらいの地方都市を渡り歩いて生活しています。
いま、政治的な主張として「日本」とか「日本人」について語る人が大勢います。
僕の実感としては、満員電車で通勤・通学して、ペーパードライバーのまま生活している「都会人」と、徒歩や自転車、自家用車で通勤・通学し、地元の同じようなメンツとずっと付き合い、休日にはイオンモールに行く「地方人」を、同じ「日本という国」「日本人」というカテゴリーにまとめていいのか、という疑問があるのです。
ネットの力で、文化的な格差はかなり減ってきたし、これも「二極化」ではなくて、東京と僕の生活の範囲である地方都市の間に「博多」のような「小さめの東京」みたいな場所もあるし、僕が住んでいる地方都市よりも、もっと「田舎」のニア限界集落、みたいな地域も存在していて、実際はグラデーションがあるけれど。
いまの日本での「東京の富裕層」の思想や意識って、「日本の地方民」よりも、「海外の富裕層」に近いのです、たぶん。
ここで冒頭の話に戻るのですが、「美」と「美術」とは、違うんですよね。
もちろん、田舎にも「美しいもの」はたくさんあって、緑の田園風景とか、夏休みに虫取り網や釣り竿を持って歓声をあげている子どもたちに、僕は「いいなあ、美しいなあ」と感じます。
でも、「美術」となると、誰か偉い人が権威付けをしていて、要するに「金銭的な価値がある、あるいは、価値が出ることが期待される」という「市場性」が求められる。
これはいまから15年くらい前に話題になった村上隆さんの「アート論」です。
このなかで、村上さんは、こんなふうに述べています。
抽象表現主義とは一言でいえば、「ピカソを倒せ!」というムーブメントです。ピカソの荒々しくて独創的な作品に打ち勝つにはどうしたらいいのだろうということがいろんな形で研究されました。
そして、ついに「絵を描かない」ことで、ピカソを撃退しようとしたわけです。なぜか?
ピカソと対になっているマティスという画家がいます。マティスは晩年絵を描かないという境地に達していました。色紙をちょきちょき切って、みんなが知っているベネッセのマークみたいなものを糊で貼ったりしたわけです。それに加えてフランスから来たマルセル・デュシャンが便器で作った『泉』を発表した。muttとサインして、ある展覧会でこの便器を出して、アートははどうせ下ネタ=エロスではないか、下ネタだったら男子便所の便器でも持ってきてやるよ、と。美術館的な台座にのせて芸術とはこんなものでございというパロディをやってみせたところ、今や現代美術の始祖といえばデュシャンの『泉』ということになっています。これが現代美術のゼロ地点です。
ピカソがあってマティスがあってデュシャンがあって、この描くことを拒否することが芸術の世界で非常に重要になってきた。前の章で、画商やキュレイターや美術館といったプレイヤーたちの望むもの、それが西欧式ARTのルールであると説明しましたね。それはもう本当にゲームのルールと同じです。
なぜ日本の人たちが、現代美術が嫌い、現代美術がわからないと言うかというと、わざわざコンテクストを知的に理解しなければならないアートなんてアートではないと思っているからです。アートというのはそういう高尚ぶったお勉強のできる人の遊技ではなくて、誰にでもわかる=“自由なもの”であるべきだと、皆思っているのですね。
「アートは自由に理解すべきだ」
これはほとんど信仰に近いものがあります。
では、さきほどぼくが日本人にとって芸術であるといったマンガの場合はどうか。皆さんは「マンガはコンテクストなど理解せずに、自由に見て楽しめるからいい」と思っているかもしれませんが、実は外国人にとってマンガほどハイコンテクストで、ハードルの高い文法を持った芸術はありません。特に現代マンガは先行するコンテクストへの理解なしにはきちんとした理解は不可能です。それよりは現代芸術のほうがよほどわかりやすいと僕は思います。
「美しい」と感じるのは、ほとんどすべての人間が持つ「衝動」のようなものだけれど、現代社会では、「美術」を含む芸術=アートがわかる、というのは、自分がその素養を身に着けた、知識人であることの証明、として機能しているのです。
千利休が認めた茶器、なんて、興味も関心もない人が知らずに見れば、100円ショップでもっと使いやすそうなのが買えるんじゃない?ってものですよね(僕も理解してみようと何度か試みてみましたが、「茶器」とか「書」に関しては、いまでも全くわかりません。美術館で「作家名や作品名を見ずに、好きな作品を選んでみるテスト」とかもときどきやっているのですが、結局、「見る目」が向上した気はしないのです。
まあ、展示の仕方や興味を持つ人の数だけみていても、「どれが有名な作品か」はわかりますよね。
伊藤若冲やフェルメールのように、世間で再評価されたことで、観る側の感覚が変わることも少なくありません。
同じ人が演じている同じ作品でも、その人が不祥事とかを起こすと、前と同じ感覚では観ることができないように。
村上隆さんには、こんな著書もありました。
芸術には「大衆芸術」と「純粋芸術」があり、現代美術は純粋芸術に属します。その意味もよく考えてみるべきです。純粋芸術といえば、ヒエラルキーの上位に位置するジャンルのようにも感じられるかもしれませんが、まったく違います。わかりやすく単純化していえば、顧客が大金持ちだということです。
芸術作品は自己満足の世界でつくられるものではありません。営業をしてでも、売らなければならないものです。そのためには価値観の違いを乗り越えてでも、相手、顧客に理解してもらう「客観性」が求められます。
その部分が日本のアーティスト志向の人たちの意識からは決定的に欠落しています。
現代美術が、純粋芸術である以上、客は大衆ではないのです。
現実的な話をしましょう。100メートル規模の「五百羅漢図」と仕上げるうえでは、特注したシルクスクリーンだけでも1億5000万円ほどのお金がかかります。顧客がいて、その人にお金を出してもらえるからこそそれができている。そういう認識がなければ、現代美術におけるものづくりはできないわけです。
それは、まず資本を集めるところから始めなければならない企業の論理と同じものです。
顧客との関係性において、ぼくたちアーティストは常に”下からお伺いを立てる立場”にあります。
「いつか自分の作品がわかってもらえる日が来ればいい」と夢想していても、その人の目の黒いうちにその日がくることはほぼあり得ません。
理解してもらうためには、ただただ歩み寄る。
そうすることに疑問を抱かないのが、絶対的最下層にいる人間の生き方です。
いつか世間に見直してもらえるといった考えを捨てることこそが、芸術家として身を立てる第一歩、成功するための仕事術の第一歩になるのです。
欧米の芸術の世界には”確固たる不文律”が存在しています。
そのルールをわきまえずにつくられた作品は、評価の対象にさえなりません。
日本の現代美術家たちがほとんど欧米で通用しないのはそのことを理解していないからです。
それでは評価されるためのステージにつくこともできないのは当然です。
わかりやすい単純な部分でいれば、欧米では「見た目がきれい」的なことは重要視されません。知的なゲームを楽しむのに似た感覚で芸術作品を見ているので、目に入った瞬間の美しさなどよりも、観念や概念といった「文脈」の部分が問われるからです。
美術展などに行くと、美術展めぐりが趣味、というような中年たちが、「このあいだ、あの美術館で、あの作品を観た」みたいな話をしているのを耳にします。
僕は絵も、観れば観るほど、よくわからない。
どのくらいの距離で、どんなふうに、どのくらいの時間観たら、「見た」ことになるのか。
あまりの混雑に、人垣の後ろから、ちょっと実物を眺めるのと、空いている時間に、目の前でちょっと角度を変えて絵の具の厚みとかを確かめることまでやるのは「同じ」ように「見た」ことになるのか。
そもそも、よくできたレプリカがそこに飾ってあっても、僕はそれを「本物」だと思うでしょう。
逆に、3Dプリンターで本物のデータと「同じ」ものを再現したとしたら、それは「本物を見ること」と何が違うのか、こちら側の「意識」の問題なのか。
現代美術は、洋の東西を問わず、さまざまな概念や作品が登場していて、この本を通読した程度で、理解した気分にはなれないのです。
それでも、さまざまな作品の紹介を読んでいると、「こんなものまで『アート』の範疇に入っているのか……」という新鮮な驚きがあるのです。
コンセプチュアル・アートは、作品の内容(扱われている題材)を重要視する芸術でした。これは作品の形式(見た目)を重視するモダニズムに対する懐疑から出現してきた潮流です。それに対し、リレーショナル・アートは作品が産出する「関係性」に強調点が置かれている芸術と理解できます。
(中略)
ティラヴァニ(リクリット・ティラヴァニ:1961~)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれのタイ人アーティスト。現在コロンビア大学で教鞭を執っています。幼少期から外交官の父に連れ添って、様々な国での生活を体験しました。不慣れな異文化への適応や言語を共有しない人々との意思疎通の必要性は、彼の芸術実践を本質的に形作りました。
ニューヨークのポーラ・アレン・ギャラリーでのパフォーマンス《無題1990(パッタイ)》(1990)は、彼の名を一躍世間に知らしめました。これは、文字通りギャラリーを訪れた人にパッタイ(タイ風焼きそば)を振る舞うパフォーマンスです。以降も《無題1994(ビューティ)》など展示空間で食べ物を振る舞うパフォーマンスを通して、ティラヴァニは来場者の間にコミュニケーションを創出する芸術実践を継続してきました。
ティラヴァニはパフォーマンスに自身のルーツと関係するタイ料理だけではなく、展示先の国に特有の食べ物を用います。日本での個展のオープニングでは、焼き魚や梅干しが振る舞われました。彼の芸術実践に参加した多様な国籍の人々は、自らが属する文化圏から離れて異なる文化に触れることになります。鑑賞者は慣れ親しんだ習慣から距離を置き、新鮮な目で世界を可能性に開かれます。ここには「大地の魔術師たち」展から引き継がれる多文化主義的な関心が観察できます。
「アート」とは何か、なんかすごいことをやっている、前衛的だ、という雰囲気がある一方で、この場合、実際にやっていることは「焼きそばの屋台」みたいなものじゃないですか。
でも、そこに「みんなが感心するような理屈」をつけることが「アートの本質」になっている。なってしまっている、と言っていいのかどうかはわからないけれど、「うまく説明する、口車に乗せる」のがアートで、それをわかっているようなふりをできるのが「アートがわかる人」なのです。
彼らは共犯関係を結び、生きるために必要でもなく、とくに役にも立たないものに、高い値札をつけている。
冒頭の『美術手帳』の編集長のポストも、「無難なことを言っても無意味で、炎上するくらいの言い回しにして話題になったほうが美術に関わる人間として正しい姿勢だ」という前提があるのでしょう。
僕は正直、よくわからない。
最近、演劇、舞台などを観ていても、「かつて新しい演出家だと言われていた人たち」が、大御所化して、何十年間も同じことをやっていることに食傷してもいます。
歌舞伎くらいの長い時間になると、様式美、伝統芸、になるのかもしれないけれど。
なんだかだらだらと長文を書いてしまったのでそろそろ締めるけれど、僕はなんのかんのいっても「自分にはよくわからない」からこそ、アートというものに惹かれてきた、それは間違いないと思う。
そういうものが「少しわかったような気分」になって、多少なりとも優越感を抱いてしまっていたことも含めて。
でもなあ、なんかひと目みて、「うわぁ!」って我を忘れるような作品を見てみたいよなあ。それは、この年齢になっても、ずっとそうなのだ。
アニメ『フランダースの犬』のラストかよ!と、自分にツッコミを入れつつ(それまでの過程はさておき、あれはあれでけっこう幸せな終焉だったのではないか、と今は思っている)。
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