いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「私が書いたものを誰かが読んでくれる」ということ


僕は一度はてなブログを「読者登録」したら、よほどのことがない限り、外すことはない。
でも、これいいなあ、と登録したブログのなかには、すぐに更新されなくなったり、消えてしまうものも少なくないのだ。
それはそれで寂しいことではあるけれど、まあしょうがないよね、とも思う。
ブログというのは、有名になりたいとか、お金がほしいとか、多くの人に褒められたい、というようなモチベーションでは、あまりにも、満たされ続けることが難しいから。

最初にホームページをつくったときには、「6HOT」(そのうち半分は自分)みたいなのが当たり前だったのが、続けていくうちに、満足できるハードルはどんどん高くなっていく。ブログを読みたい人口は、頭打ちになっているにもかかわらず。

こんなに一生懸命書いているのに、なんでこう、バーンと大ブレイクしないのかねえ。
そういうのは、自分でも半分答えはわかっていて、書いているほうがマンネリを感じ、飽きているものは、読む側は、とっくにそうなっているのだ。
でも、他にできることもないから、書いている、書き続けている。
自分がここまでやってきたことが虚しくなるのが怖いから、更新している。


crankyy.hatenadiary.jp


そんな袋小路に入っている今日このごろなのだが、昨日、ずっと前に読者登録していた(らしい)このブログを読んで、なんだかとても心が軽くなったのだ。内容は、軽々しいものではないのだが、締めの一文は、僕が失くしてしまったものを思い出させてくれた。

そういえば五年ぶりに記事を書いた ら、10くらいアクセスがあったよ。わーありがとー。私が書いたものを誰かが読んでくれた、ってなんか生きてる感じするね。うれしいありがと好き。


僕が20世紀の終わりに、『さるさる日記』や『ホームページビルダー』でネットという大海に手紙入りのビンを流し続けていたときは、こんな気持ちだったよなあ。
何者でもない僕が書いた駄文を、この地球上の(といっても、日本語だから、たぶん日本のどこかの)見知らぬ人が読んでくれているのだなあ、ということに、とても不思議な高揚感があった。当時の僕は、アクセスカウンターの数字がひとつ増えるたびに、「なんだか生きてる感じがした」のだ。ほんの少しだけど、居場所ができた、そんな感じ。

日常で、10人に自分の話を聞いてもらえる機会、なんてそうそうあるわけではない。
ネットでは、多くの人は、何のリアクションもなく、ただ、聞き流してくれる。僕は、そういう、ささやかであと腐れがない(ことが多い)「ふれあい」みたいなのが好きだ。
知っている人、関係が深い人であれば、「この人にこんな話をして、関係が壊れないだろうか」と気になるし、「話すべき場所やタイミング」みたいなものも考えなければならないし。退屈そうな顔をされるのも怖い。

また明日になったら、やっぱり、「もっと大勢の人に読んでほしい!」とか、「アフィリエイトで本がもっと売れないかなあ」なんて思うのだろうけど、とりあえず今日は、少し元気が出た。うれしいありがと好き。


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日々我人間2 (文春e-book)

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