いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

彼がその名を知らない『魔性の女』たち


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 ワイドショーで、山里亮太さんと蒼井優さんの結婚会見を観た。このニュースをネットではじめてみたときには、夫婦役でドラマをやるとか、映画に出るとか、そういう話なんだろう、と思ったのだが。
 ふたりの会見をみていると、なんだかとても幸せそうで、観ていて「いいなあ」という気分になった。山里さんの著書を読んだときに、「笑い」や「売れること」への執念と、そのための努力に驚かされるのと同時に、身近な人にとっては難しいというか、キツいのではないかと感じたのだけれど、蒼井さんとは本当に「ウマが合った」ということなのだろう。紹介したのが、蒼井さんと『フラガール』以来の親友のしずちゃん、というのがまた。南海キャンディーズは山里さんのあまりにも厳しい要求と相方への嫉妬で、一時期コンビ仲がすごく悪かったそうだ。『フラガール』への出演にも難色を示した、と山里さんは著者に書いていた。そんな時間があったら、もっとちゃんとお笑いをやってくれ、と。
 ただ、そうやって衝突しながらも、山里さんの厳しさのおかげで成功できた、という思いも、今はあるのに違いない。そして、山里さんも、そういう自分の過去を告白できるくらいには、自信が持てるようになった。
 もし、僕が20年前にこの会見を観たら、「交際2か月なんて、すぐダメになっちゃうんじゃない?」とか言っていただろう。
 でも、40代後半になってみると、とりあえず、今、誰かのことがすごく好きで、結婚したいのならば、してみれば良いのではないか、と思っている。
 その「好き」が永続するかどうかはわからない、というか、たぶん、ずっとは続かないことのほうが多いのだけれど、それでも、やってみて後悔するほうが、やらずに後悔するよりも、ずっとマシな気がする。
 少なくとも、やってみれば、なんらかの「学び」はある。

 会見のなかで、蒼井さんが「魔性の女」と呼ばれていることに対して、山里さんが「皆さんの目の前にいる蒼井さんと違う蒼井さんを僕は見せて頂いていると思う。本当に純粋で美味しいもの食べて喜んで泣きたいときに泣くっていう…皆が思い描いているのってちょっと違うでしょ?“魔性”って単語使ってますけど僕はそんな人間じゃないって一緒にいてずっと見てたんで、皆さんの思う“魔性”から派生する心配は一切ございません」と答えていて、「山ちゃんカッコいい!」とネットでも称賛の声があふれていた。
 うん、あれは本当にカッコよかったな。

 ただ、僕の暗黒面は、こう囁いていた。
「いや、いかにも『魔性の女』っぽいというか、峰不二子みたいな人(本当にいるかどうかはさておき)だと、わかりやすいから、そういう女性が好きな人が、恋愛の駆け引きを楽しむ、ということで、お互いのニーズが合致してハッピーなんだよ。でも、『魔性の女』のなかには、『純粋で真面目で、自分のほうをまっすぐ向いてくれている』ように見えるし、本人(女性側)にも悪意はないのに、いつのまにか他の人を「真剣に」好きになったり、自分の「好きじゃなくなった」に純粋だったりする人って、いるのだよなあ」

 こういう『魔性の女』というのは、少なくともそのときのパートナーには、「この人は世間で言われているような人じゃない」と思い込ませる能力に長けているのだ。もちろんそれは、わざとではない。
 
 あまりにもわかりやすい「(ネット的な)釣り」が、実際には「釣り」として機能しない(誰も引っかからない)のと同じように、本当の『魔性の女』は、むしろ、そのとき一緒にいるパートナーに「こんな純粋な人が、なんでそんなことを言われるのだろう」と感じさせるからこそ、『魔性』なのだ。

 僕は蒼井優さんがプライベートでどんな人だか全然知らないので、蒼井さんがこのタイプだ、と言うつもりはないし、ふたりには幸せな時間が多いことを願っている。本当だ。
 にもかかわらず、水を差すようにこんなことを書いてしまう自分に幻滅している。

 僕も含めて、ほとんどの人には「人を見る目」がないし、そのうえ、人というのは時間とともに変わっていく。
 もちろん、「全然変わらないね」ということも少なくないのだが、変わらないことが諍いの種になることもある。

 人の「魔性」というのは、そう簡単に見極められるようなものではないと感じてきたし、おそらくそれは、僕のなかにも存在しているものなのだ。


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天才はあきらめた (朝日文庫)

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