ピエール瀧さんのコカイン所持・使用による逮捕にともなう、作品の「お蔵入り」には、いろんな意見が出ています。
社会的な影響(憧れてドラッグに近づく人びとを増やさないため)や「ドラッグのおかげでできた作品」に価値はない、という人もいれば、「作品に罪はない」「ドラマや映画は、彼ひとりの作品ではないのだから、封印されてしまうのは処分が重すぎる」など、どの意見にも、それなりの合理性はあるのです。
ピエール瀧さんという人が好きだったり、ドラッグカルチャーに理解があったりする人は「作品は残して良いのではないか」という意見になりやすく、興味がなかったり、身近なところに覚せい剤やアルコールなどで他者を傷つけた人がいたりすれば、否定的な立場をとりやすい。
ポジショントーク、とはいうけれど、人間というのは、自分のポジションから逃げられないところはありますし、新井浩文さんが犯してしまったような「被害者がいる犯罪」の場合には「被害者感情」を慮ることが重視されますが、麻薬の場合には、「じゃあ、誰が被害を受けたの?」と言われて、考え込んでしまいます。
僕は最初、ピエールさんが、ドラマに出て売れっ子になり、俳優として高く評価されるようになったことで、「思いがけないジャンルで成功してしまった自分」への不安から、コカインに手を出したのではないか、と勝手に想像していたのです。
自分には向かないことをやって高く評価されるようになったけれど、こんなことがいつまで続いてくれるのだろうか?という不安から、手を出してしまったのではないか、と。
ところが、伝えられている供述では、20代からすでに麻薬を使用していたそうで、それはそれで、「世の中には、コカインとか使いながら、何十年も社会生活を送って、成功できる人もいるのだなあ」と感心してもいたんですよね。感心するような話じゃないかもしれないけれど。
アルコールともうまく付き合える人がいれば、依存症になって破滅していく人もいるわけで、ピエール瀧さんよりも、もっと日常的な迷惑行動を繰り返している「アルコール依存者」は大勢います。
とはいえ、コカインとか覚せい剤、大麻は、依存性が高い薬物で、現在の日本では禁じられており、反社会勢力の資金源になっている、という問題点があるわけです。
そして、多くの人は、なんらかの娯楽や快楽物質に多かれ少なかれ依存して生きているわけで、歴史と伝統があり、すでに「合法産業化」されている酒や煙草が、とりあえず容認されている、ということなのでしょう。
コラムニストの小田嶋隆さんが、こんな本を上梓されています。
fujipon.hatenadiary.com
小田嶋さんは、この本のなかで、かなり客観的に自分自身とアルコール依存というものについて書いておられるような気がします。
客観的に書こうとつとめている、と言うべきか。
なんでアル中になっちゃうんでしょうね? 私もさんざん訊かれました。みんな理由を欲しがるんですよ。その説明を欲しがる文脈で、アル中になった人たちは、「仕事のストレスが」とか、「離婚したときのなんとかのショックが」とか、いろんなことを言うんです。
だけど、私の経験からして、そのテのお話は要するに後付けの弁解です。
『失踪日記2〜アル中病棟』の吾妻ひでおさんも言ってました。アルコホリックス・アノマニス(AA)の集会や断酒会など、両方に顔出して、いろんな人のケースを聞いたけど、結局さしたる理由はないことがわかった、と。「こういう理由で飲んだ」とこじつけているだけで、実は話は逆。
まず、飲んじゃった、ということがある。
飲んじゃったから、失業した、飲み過ぎたから離婚した、飲んだおかげで借金がこれだけできたよ、というふうに話ができていくのです。
ではなぜ飲んだんですか、という問いには、実は答えがない。
世の中で、アル中の話がドラマになったり物語として書かれるときに、やっぱり理屈がついていないと気持ちが悪い。止むに止まれぬ理由がないとドラマが成立しにくい。だから、飲むための理由を補った形で物語がつくられるわけです。
だからあれウソ、だと思う。
実際の話、嫌なことあって酒飲むとすっかり忘れられるかというと、そんなことはありません。あたりまえの話です。むしろ、飲み過ぎちゃったってことが逆に酒を飲む理由になる。あるいは、お酒がない、入っていないと、正常な思考ができない、シラフだとイライラしてあらゆることが手につかなくなる、そういう発想になっていくから飲む。
アル中になる前に飲んだ理由は、別に普通の人が飲む理由とそんなに変わりません。なんとなく習慣で飲んでました、仕事が終わって一区切りで飲んでました。その程度のものです。
人間は、自分自身や他人の行動に対して、「理由」や「物語」がないと、落ち着かないところがあるのです。
原因と結果は、しばしば、都合によって入れ替えられる。
失業とか失恋とか離婚とか、なんらかの「きっかけ」があって、「それなら、アルコールに逃げてもしょうがないよね」というストーリーがつくられがちなのだけれど、実際は、アルコール依存でおかしくなってしまった、というのが先にあって、それらの問題が生じていることが多いのです。
むしろ、飲みたい側、飲みたい人を引き留める大変さに疲れてしまった側が、こういう「ドラマ」をつくってしまう。
アル中になる人でも、飲んだ理由やきっかけは、特別なものではないことがほとんどだ、ということは、普通だと今思っている人だって、アル中になっていく可能性は十分にある、ということなのです。
それは、知っておいたほうが良い。
小田嶋さんは、アルコール依存の治療の際、主治医にこんな話をされたそうです。
先生の言うには、アルコールをやめるということは、単に我慢し続けるとか、忍耐を一生続けるとかいう話ではない。酒をやめるためには、酒に関わっていた生活を意識的に組み替えること。それは決意とか忍耐の問題ではなくて、生活のプランニングを一からすべて組み替えるということで、それは知性のない人間にはできない、と。
でも実際やってみるとそうでしたよ。だって、酒がない人生を一から設計し直す作業というのは、実際問題としてえらく人工的な営為じゃないですか。
とにかく自然に振る舞っていると飲んじゃうわけです。
これも先生の言っていたことなんだけど、「アル中さんっていうのは、旅行に行くのでも、テレビを観るのでも、あるいは音楽を聴くのでも、全部酒ありきなんだ」と。だから、音楽を楽しんでいるつもりなのかもしれないけれど、酒の肴として音楽を享受している。そういうところを改めなくてはならないから、これは、飲まないで聴く音楽の楽しみ方を自分で考えないといけないよ、みたいなことを言われました。
小田嶋さんは、アルコールをやめることによって、音楽の趣味や読む本も変わってしまったそうです。
アルコールに浸かってしまうと、「お酒と一緒じゃないと何をやっても楽しくない」という状況に陥りがちなのです。
音楽や小説でも、「お酒を飲みながら、という状況に合ったもの」を選択していたので、酒なしだと面白くなくなってしまったのだとか。
そこで、「やっぱり酒なしだと楽しくない、ダメだ」と思うか、「酒によって、自分の趣味は書き換えられていたのか」と考えるかで、その後は変わってくるのでしょう。
もちろん、ドラッグの効果や依存の度合いというのも、人それぞれではあるのでしょうけど、これを読むと、「ドラッグに依存して生きてきた人の『作品』には、ドラッグの影響があると考えるほうが自然ではないか」という気がします。
冒頭の記事のなかで、松本人志さんは「ドーピング」と仰っていますが、悩み苦しんで創作をする立場の人からすれば、「それはズルだろ」と言いたくなるのも仕方がないとは思います。
オウム真理教が、LSDを使って「悟り」のような感覚を信者に与えていたのですが、それで悟れるなら、宗教者の「修行」というのに意味はあるのか?と僕はずっと考えていました(まだ答えは出ていません)。
実際は、ドラッグが創造的に働く人はそんなに多いわけではなくて、多くの人は単なる廃人ロードを突き進んでいくだけなのですが。
僕はずっと中島らもさんが大好きなのですが、らもさんの「大麻解禁論」だけは受け入れがたいと感じていました。
でも、僕自身は麻薬使用者になるつもりはなくても、らもさんの「ドラッグについての話」は、魅力的ではあったのです。
この本には、らもさんが、うつ病で「死んでしまいたい」という気持ちにとりつかれ、遺書を準備し、死に向かいつつも、「家族のこともやりたいこともまだあるから、死ぬわけにはいかない」と葛藤したときのことも書かれているのです。
ギリギリのところで、マネージャーに助けを求め、らもさんは「生きる」方向に舵を切ったのです。
ところで、公演中にケリー・フォン・エリックがピストル自殺した。
馬場と死闘をくりひろげた、鉄の爪フリッツ・フォン・エリックの息子である。
プロレスファンの間では、「呪われた鉄の爪一家」と呼ばれているが、たしかに六人ほどいた自慢の息子レスラーたちが、次々と亡くなっていく。もう残っているのは、ケビン・フォン・エリックくらいだろうか。
ケリーは馬面に長髪、目を見張るような引き締まった巨体の持ち主だった。得意技は免許皆伝の「鉄の爪(アイアンクロー)」である。ところがこの人は何年か前に交通事故にあった。片方の足がぐしゃぐしゃになるほどの骨折で、もはや再起は不可能だろうといわれていた。
ところが、リハビリをして、彼は何年か後には再びリングに立ったのである。足はあまり動かない。それでもアイアン・クローを武器に、リングに上がっていた。この人の闘う動力になったのは、コカインだった。
十年近く、コカインを吸ってはリングにあがり、それが警察の知るところとなった。
有罪判決が出た数日後、彼はピストルで自らの頭を射ったのである。
裁判所のバカめ、と一言申し添えて、今回は筆を擱(お)く。
ちなみに、エリック一家では、フリッツ・フォン・エリックは1997年に他界し、1995年にプロレスからは引退していたケビン・フォン・エリック(フリッツの次男、ケリーの兄)は現在も存命です。
この話、「とはいえ、やりがいがコカインじゃなくてもよかったのでは……」とも思うし、裁判所が、「そういう理由ならOK」とは言い難いのもわかるんですよね。
でも、ひとりのプロレスファンとして、「裁判所のバカめ」と言い捨てずにはいられない中島らもさんの気持ちも伝わってきます。
癌の患者さんに対しては、苦痛を緩和するための医療用モルヒネの使用が許されているのですが、人生における、耐えがたい苦痛は、癌だけによってもたらされるわけではないでしょうし。
じゃあ、生きづらいやるらは、みんなドラッグ漬けにしてしまえ、ってわけにもいかないよね……
らもさんは、2003年の2月に大麻やマジックマッシュルームの所持、麻薬取締法違反などの現行犯で逮捕されています。判決は執行猶予付きで、作品が書店から姿を消すこともありませんでした。翌2004年に、らもさんは階段から落ちて頭を打って亡くなられていますが、この2003年2月の時点では、躁病がかなりひどくなっていたそうです。そういう事情も判決や世の中の反応には影響していたのかもしれません。
ただ、死後語られている晩年のらもさんの状態からすると、あの事故がなくても、精神的にも肉体的にも、そんなに長くは生きられなかったのではないか、とも思うのです。
「ドラッグ」の影響があるとしても、僕は中島らもさんの作品が大好きです。
そして、世の中には、「クスリをやっていた人たちの作品」がたくさん存在していて、現在も多くの人に愛されています。
作者と作品は別、とは言えない一方で、亡くなって10年も経てば、「みんな人間だったんだよね」的な「赦し」が与えられているのも事実なのでしょう。
音楽や小説や映像にも「ドラッグ的なところ」はあって、それで浮世をしばし忘れたい夜もある。
ここまで書いてきて言えるのは、みんな、自分が好きなものは無くなってほしくないよね、ということでしかありません。
商業的な淘汰は加えられるとしても、残るべきものは残る、ということになるのだろうし、そうであってほしい。
今回の件で、もうひとつ感じたのは、不祥事が起こったという理由で、オンラインで声優が替えられてしまう世界のほうが怖いのではないか、ということなんですよ。
かつて存在していた人の足あとを、不都合になったら、管理者の都合で「消せる」時代だということだから。
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