これを読んで、兼業作家として単著まであって、担当の編集者までついているのにやめちゃうなんてもったいないなあ、というのと、慢性的な睡眠不足に陥っているにもかかわらず、そんなにお金にもならず、書きたいものも書けないというのであれば、WEBとか同人誌で自分のペースでやったほうが良いのかな、というのと。
寝不足って、年を重ねるにつれて、どんどんつらくなってくるし。
ただ、こういう選択ができるというのは、まだ恵まれているのかもしれない、とも思います。
僕はネットの世界で、「自由に生きたい」「人生、やりたいことをやらなきゃ!」と颯爽とブログデビューした人たちの多くが、しばらくすると、出会い系サイトやFXや仮想通貨の宣伝マンと化し、サロンに人を呼び込んで、なんとか食い扶持を得ようと躍起になっているのを見続けてきました。
あの人たちは、こんなことがしたくて、「ブログで自由な生き方」とか「脱社畜」とか言っていたとは思えないのだけれど、人というのは、一度それで稼いで生活をするようになると、その収入が失われてしまうことを恐れるものです。
同じ10万円の給料でも、9万円から上がった人はモチベーションが上がり、11万円から下がった人はフラストレーションがたまるそうですし。
得られるはずの1万円がもらえなかったときよりも、もっている1万円を失ったときのほうが、精神的なダメージはずっと大きいらしい。
大概の人は、職業作家になどなれないのだが、一度その座をつかみ取れた人でも、ずっと売れ続けるとは限りません。
それでも、職業作家であり続けるためなら、なんでもやる、という人もいれば、自分が書きたいものを書かせてもらえないのであれば、「職業」である必要はない、という人もいる。
現実的には、前者の割合が高くて、「作家であり続けるために試行錯誤し、自分では書きたくない作品にも挑戦してみたが、どうしても売れないので諦めた」という人が多いはず。
商業主義というのは否定されがちなのだけど、「売れる」というのはかなり難しい。「売れ線のものを書けば売れる(けど、自分は妥協したくない)」という発想は、誰もが一度は通る道ではある。
ネットでも「エロ系コンテンツならアクセス爆上がり!」みたいなことがよく言われていたけれど、そんなわかりやすいレッドオーシャンで結果を出せるというのは、とんでもない才能だと思います。
「なろう系小説」とか「女の子が伝統的な商売をやっている安楽椅子探偵」ばっかりで、書棚の前で呆れてみせたくなるのだが、実際は、誰も見向きもしない「なろう系」や、椅子に座ったまま白骨化した探偵の死屍累々なのだから。
何が売れるか、というのは、そう簡単にわかるものではないし、「ツボ」がわかっていても、そこを正確に刺激できるかは、また別の話です。
『ダンジョン飯』をはじめて読んだときには、こんなニッチなものが、今の世の中では売れるのか……と驚いたのだけれど、そういうのは、僕にとっての「マイナー」と、子どもの頃から『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』に接してきた若者たちとのギャップもあるのだろうな。
あの作品の場合は、『ウィザードリィ』的なダンジョン、という、レトロな世界観が、かえって新鮮だったのかもしれないし。
冒頭のエントリを読んでいて、僕は、先日テレビで観た、林修先生の話を思い出したのです。
news.walkerplus.com
「もともと、やりたいことは”本を書くこと”だった」という林。頼まれるままに自己啓発本を何冊か書いて累計100万部の大ヒットをたたき出した後、その出版社から「書きたいものを書いてください」という依頼を受け、日本の食文化に関する本を出版したという。
「これが、まったく売れなかった。僕が出した本のなかで重版にならなかった唯一の本」「こんな屈辱味わうんだったら、書きたくない本のほうがうんとマシだった」と悔しさをにじませた。「リベンジしたいとは思わない?」と聞かれると「1回自分が書きたいものを書いて迷惑をかけちゃったことは消えない。プロだから、一回迷惑をかけたらそれはもう失格だよ」と厳しい表情で語った。
林先生の場合には、「自分が書きたいことを書く」よりも、「出版部数とか視聴率とか、とにかく競争に勝つこと」がモチベーションになったわけです。
そして、そういう「競争心」を満たすのを受け容れることができた。
この番組のなかで、「好きな仕事じゃないとやりたくない」と主張する若者に、林先生は「僕には”できる・できない”の軸のほうがすごく大事」「”やりたい”は環境や情報によって偶然生まれる。それって本当にそんな絶対的なものなのか?でもね、”できる”というのは偶然じゃない」と語っていました。
20歳のときの僕であれば、「やっぱり、好きなことを仕事にするべきだ」と思っただろうし(いや、20歳のときには、向いていない学部で悶々としていたので、16歳くらいのときには、かな)、今の40代半ばの僕は「”やりたい”は偶然生まれるだけのもの」という言葉のほうに説得力を感じるのです。
成長していく子どもに接していると、子どもが何に興味を持ちやすいかというのは、環境とか周囲のおぜん立てによるものが、非常に大きいと感じます。
人が何かを好きになるのって、基本的には「自分にはそれができる、それをやることによって、何かを成し遂げられる」という期待があるから、じゃないのかな。
好きだからできるようになるのではなくて、できるから、あるいは、できそうな、自分に向いていそうな予感があるから、何かを好きになるのではないか。
麻薬とかお酒とか恋愛というような、依存症になりやすいものは別として、「仕事」として選ぶのは、大概、そういうものだと思うのです。
この本のなかで、林先生は、こう仰っています。
「大した努力をしなくても勝てる場所で、努力をしなさい」
僕が授業でよく使う言葉です。どの世界にも一流と呼ばれる人がいます。野球のイチロー選手など、スポーツ選手で例をあげていけばきりがないでしょう。こういう人は誰よりも努力し、自己管理も厳しく行って今の地位を維持している、そのことに異存はありません。しかし、最初から、あるいは少しやってみたときに、周りとはひと味違うキラリと光るものをもっていたことがきわめて多いのではないでしょうか?
(中略)
50年近く生きてきて思うのは、
本当に得意な分野はそんなに多くはない
ということです。逆に言えば、これは勝てるという場所を1つ見つけてしまえば、人生は大きく開けます。今うまくいっている人とは、「僕はこれしかできません、でもこれだけは誰にも負けません」と、胸を張って言える人のことではないでしょうか?
勉強もダメ、運動もダメ、でも誰よりもすごい寿司を握る自信があって、実際に店がお客さんでいっぱいなら、それでいいのです。また、僕が水商売でうまくいっている女性を尊敬するのも同じ理由です。みんな自分の走るべきレースを見定めて、そこで勝負をしているのです。そこにどうして貴賤があるのでしょうか? 罪を犯しているわけでもなく、他人がとやかく言う話ではありません。
僕自身の大学入試の現代文の解き方を教えるという仕事もまた、世の中に無限といっていいほど存在する仕事の種類のなかのたった1つにすぎません。そもそも大学受験をしない人にはまったく無価値であり、その世界自体も実に狭いものです。そのことを自分でちゃんと認識しています。しかし、大学入試がなくならない限り、この世界は存在し続けるのです。それもまた事実です。
競馬では1200mなら絶対に強いという馬がいます。もっと範囲を狭めて、京都競馬場ではまるっきり走らないのに、中山競馬場1200mになると別馬のように強い、という馬もいます。それでいいのです。なぜなら、中山競馬場の1200mのレースは、今後も確実に施行されるのですから。
たぶん、僕も含めて、大部分の人は、自分にとっての中山1200mを見つけられずに、あるいは、そういうものを真面目に探すこともないまま、四国の山奥にある未知の楽園みたいなものに想いを馳せて、こんなはずじゃなかった、とか言いながら死んでいくのです。
そういう人生も、それはそれで悪くないのかな、少なくとも平和を享受できる人間の特権だし、とも思うのだけれども。
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最近読んだこの本のなかにあった、国連で働いている女性のこんな言葉も印象に残っています。
「仕事にはすごく満足している。やりがいを感じてる。日々のレベルの仕事ではつまらないこともたくさんあるけどね。下らないことに時間使ったり。でも結局仕事なんてどこで働いても一緒でしょ。毎日メールを書いたり電話をしたり。でも違いは結局自分がやっていることが何に貢献しているか。日々やっていることはしょうもないことでも、それが何か大きなものにつながってる。自分は確かに正しい世界にいるって知ってることが大切。だからずっと働きたかった組織にこられたには幸せだな。自分たちは世界の流れのトップにいるっていう感覚はすごいよね」
つきつめれば、人間というのは、「自分はそんなに間違ってはいないことをやって生きているはずだ」と思いたくて、その保証を求め続けているのではないだろうか。
医療関係の仕事とか、そういう面では、ものすごくわかりやすいし、向いていなくても、それなりに自分を納得させやすい部分はある。
とはいえ、僕はこの年齢になっても(なったから、なのか?)、自分にはもっと他の「なるべきもの」があったはずなのに、このまま死んでしまうのかな、なんて布団の中で空虚に引きずり込まれそうになるのです。
僕は自分には向いていない人生というゲームを、自分の持ち札を活かして、なんとかここまで続けてきた。でも、ときどき、自分は毎月山のように送られてくる請求書や税金を、滞りなく左から右へと動かすためだけに生きているような気がするんだ。
それでも、あらためて考えてみると、いまの時代というのは、僕たいな人間にとっては、けっして悪くはないのだと思う。
冒頭の増田さんみたいな人にとっても。
僕が子どもの頃、半世紀前、というか「インターネット以前」は、多くの人に読んでもらうには、商業出版に「乗る」しかなかった。
それが今は「お金にならない作品でも、ネットで公開することによって、多くの人に読んでもらうことができる可能性がある」し、「食べていくための仕事の合間に、時間やお金に制約されずに創作ができる」ようになったのだから。
逆に、専業作家は大変だろうな、という気がする。
まぐれ当たりも含む、膨大な数の予備軍の「一生にひとつの作品(しかも無料!)」から時間を奪うだけのクオリティを示さなければならない。
ただ、そこで売れているものは、作品そのものの質が高い、というよりは、今の時代を切り取っただけ(それが難しい!)という、薄っぺらいものが多いようにも、僕には見えているのです。
正直、冒頭の増田さんも、編集者や宣伝担当者との相性がよければ、また別の道もあったのではないか、とも思う。
そうやって、「売れる」ことが正しいと、自分で納得できるかどうかは別として。
人間というのは、その人が生きたようにしか生きられなかったのではないか、と最近よく思うのです。
もちろん、戦争で物心つかないうちに亡くなってしまった赤ん坊に、それをあてはめるのはどうか、という逡巡もあるけれど。
ただ、僕は冒頭の文章に、ひとつ引っかかるところがありました。
最後の「読者のみんなには謝りたい。」
この気持ちがあるのだったら、この人は、まだ、商業出版の場に踏みとどまれる、踏みとどまるべきではないか、とも思うのです。
謝りたい人の顔が思い浮かぶような活動をしてきたのなら、やっぱり、もったいないなあ、と。
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