いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

2017年のノーベル文学賞を受賞した、カズオ・イシグロさんの作品を紹介してみます。


mainichi.jp


 おお、カズオ・イシグロ来たーーー!
 久々に「僕もけっこう読んでいる、好きな作家のノーベル文学賞だ!」と思いました。
 ノーベル文学賞って、一昔前は、「大家のそれまでの功績に対して与えられる賞」みたいなところもありましたし、最近では、欧米以外の地域の作家も積極的に顕彰する、という狙いも感じられていたのです。
 そんななかで、カズオ・イシグロさんの受賞には、まさか、こんなど真ん中の直球で勝負してくるとは!という驚きがありました。


 まあしかし、(あまり他人からはそう呼ばれたくないけれど)「ハルキスト」としては、若干複雑な思いもあるのです。


www.nikkansports.com


 正直、今年は昨年までに比べて、「村上春樹ノーベル賞フィーバー」みたいなのが、けっこうおとなしかった気がするんですよ。
 「ハルキストが集まる店で、ワインを片手に語らっているお洒落な人々が、受賞ならずの一報に落胆する姿」を観るのを、毎年楽しみにしていたのに!
 

 それはさておき、こういうのって、みんなが忘れかけたころに受賞、っていうのは、よくある話ではありますよね。
 こういうときこそ、かえってチャンスなのでは、と内心思っていたのです。


 僕はカズオ・イシグロさんの作品大好きですが、村上春樹ファンとしては、「先を越されてしまった感」が強いのです。
 というか、これで、村上さんは、ノーベル文学賞に関しては、後輩に先に次官になられてしまった官僚のようなポジションに置かれてしまったのではないかと。

 
fujipon.hatenadiary.com


 昨年、これを読んで、「村上春樹さんがノーベル文学賞をここ数年のうちに取るのは、かなり難しいのではないか?」と感じたのです。


 ノーベル文学賞というのは、オリンピックの開催地のように「各国(あるいは、各言語圏)持ち回り」になっているようなのです。
 もともと「その年のいちばん優れた作品、あるいはいちばん活躍した作家」に与えられる賞ではないため、そういう配慮がされているのですね。

 こうした言語による“持ち廻り制”を考えてゆくと、日本語は、1968年の川端受賞から1994年の大江受賞までを単純計算すると26年の間隔だから、次の日本語文学者の受賞は、2020年ということになる。ヨーロッパ文学の一角にあるイタリア文学のローテーションが約20年の間隔だとすると、日本文学の約25年、約四半世紀に1回という期間は妥当なところだろう。とすると、村上春樹であれ誰であれ、三人目の受賞者は2020年(頃)に出るということになる。


 ちょうど「そろそろ」なんじゃない?
 ところが、これが「日本人枠(あるいは日本語を母語とする作家枠)」とは限らないのではないか、と著者は考えているようです。

 ノーベル賞委員会としても、日本語にだけ“持ち廻り制”を適用するのではなく、中国・韓国、いずれは東南アジア、中央アジア、西北アジア、そしてインド・パキスタン、イラン、中近東の言語、文学に“持ち廻り”と配当しなければならなくなることは必定だろう。だとすると、2012年の莫言の受賞は、これまでの日本語枠、新しくは東アジア言語圏の枠での受賞と考えることができ、これは大江健三郎受賞の1994年から18年後の受賞ということになる。そして、次の18〜20年後の「東アジア言語圏」の“持ち廻り”の順番が来た時は、ほぼ確実に韓国語(朝鮮語)、中国語(台湾、香港、在米・在欧華僑、華人の文学)に絞られるだろうということだ。つまり、日本語文学の“第三の受賞者”はよほどのことがない限り、当分、現れることはないのである。
 南アフリカJ・M・クッツェー(1940〜)、トルコのオルハン・パムク、カナダのアリス・マンロー、中国の莫言ベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948〜)。ごく最近の受賞者を見れば、これまでに受賞したこなかった国、地域、言語・文学にノーベル賞が与えられているという傾向がはっきりしている。アジアにおいても、いつまでも韓国語、インドネシア語ベトナム語タイ語、フィリピン語の受賞者がゼロであってよいはずがない。そう考えると、2020年の期待も、萎まざるをえなくなる。2012年に、村上春樹か、莫言かという論議があったが、案外、あれは東アジアにおけるノーベル文学賞の分岐点であったと語られる時代が来るかもしれないのである。


 作品や作家への評価だけではなく、「ノーベル文学賞」を決める人たちの「傾向」が、かなり細かく分析されているんですよね、この新書では。
 「持ち回り」であることや、対象となる国、言語が多様化していることを考えると、村上春樹さんの「順番」は、しばらく回ってきそうにない、というのも頷けます。
 ボブ・ディランが「平和賞」ならともかく、「文学賞」を受賞したことは、「なぜオーストラリアがワールドカップの(オセアニアではなく)アジア予選に……」という以上の衝撃でした。
 これだけ広い範囲をカバーするとなると、ふさわしい人でも、なかなか順番はまわってきませんよね。


 著者は、この新書が出た2016年の時点で、村上春樹さんのライバルとなりうる作家として、カズオ・イシグロさんを挙げているのです。
 イシグロさんは日系のイギリス人なのですが、ノーベル文学賞を選考する人たちは、彼を「日本文学の影響を受けている作家」とみなし、もしイシグロさんが村上春樹さんより先に受賞することがあれば、さらに村上春樹さんの優先順位は下がるのではないか、と。


www.sankei.com


 お互いにファンであると公言している二人は、作風も比較的近いとされています。
www.jiji.com


 二人とも好き、という人は多いはずですし(僕もそうです)、イシグロさんの受賞は極めて真っ当だと思います。
 少なくとも、いきなりボブ・ディランよりは。


 しかしながら、現在68歳の村上さんよりも早く、比較的近い作風かつ62歳のイシグロさんが先に受賞してしまったということには、「それなら、村上さんが先でも良かったのでは……」と言いたくなるんですよね。
 さきほどの「受賞作家の国籍・言語・そしてジャンルの持ち回り説」を信じるのであれば(実際に、選考委員は「バランス」も意識すると思いますし)、「日系人」「日本文学に影響を受けている」人の直後に、村上春樹さんという選択がされる可能性は少ないですよね、たぶん。
 2020年、東京オリンピックイヤーくらいになったら、次の機会も巡ってくるかもしれませんが……
 村上春樹さん本人にはそんなにこだわりは無い可能性も高いのです。
 外野としては、カズオ・イシグロさんなら納得、ではあるし、村上さん自身も祝福しているにちがいないのだけれど、村上春樹さんの受賞は、また少し遠ざかってしまったな、と感じずにはいられませんでした。


 さて、ここからが本題(前置きが長すぎですね)。
 カズオ・イジグロさんの作品、僕もけっこう読んでいるので、これまで僕が読んできた代表的なイシグロ作品を御紹介していこうと思います。
 近年のノーベル賞受賞作家のなかでは、日本でもかなり入手しやすく、面白くて読みやすい作家でもあり、これを機会に、さらに多くの人に読んでいただきたい。


(1)日の名残り
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「食器磨き」が「執事」の最も重要な仕事のひとつだったなんて!
 こういう話がイギリスでは「常識」ということではないでしょうから、カズオ・イシグロは実際に高名な執事に取材したものだとは思うのですが、「執事という職業小説」として読んでも、かなり興味深いものでした。
 この小説では、「執事という職業を極めるために」自分のプライドや大切な人などのすべてをなげうってきたミスター・スティーブンスが、短い休暇旅行のなかで、今までの自分の人生を振り返っていくのですが、僕がこの小説から感じたのは、スティーブンスの痛々しいまでの「プロ意識」であり、僕はそれを「旧い生き方」だとか「スティーブンスのいままでの人生は誤りだった」なんて「総括」する気にはなれなかったんですよね。訳者や解説の丸谷才一さんまでも、そういう「プロとしての誇りに殉じた人生」に否定的であるということに、僕はちょっとがっかりしてしまいました。
 いや、僕はカッコいいと思うよ、ミスター・スティーブンス。
 僕自身にはできないことだけれど、沈んでいくタイタニックで音楽を演奏し続けるような人生を、誰が「バカバカしい」「もっと自分に素直に生きたらいいのに」なんて否定することができるのだろう?

 ちなみに、この小説、アンソニー・ホプキンス主演で映画化もされています。
 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

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(2)わたしを離さないで
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 レビューなどでは、この作品の「ヘールシャムの驚くべき真実」なんて書いてありますが、僕自身は、読んでいて「驚き」みたいなものはこの小説にはあまり感じませんでした。むしろ、もっとすごい「驚愕のどんでんがえし!」みたいなものが出てくるのではないかと思っていたのですが、作者はそういう飛び道具に頼ることなく、ただひたすらに「ヘールシャム」という特殊な教育施設で生きる少年少女と、彼らの成長を描いていきます。僕も寮生活をしていたことがあるのでものすごく身近に感じたのですが、寮生活で「学校」と「部活」と「人間関係」しか日常になくなってしまうと、なんだか本当に人間関係というのはひたすら濃密な方向に向かっていくんですよね。それは、よくも悪くも。この本には、そういう「閉鎖された場所で、どんどん煮詰まって、化学反応を起こして歪んでいく人と人との関係」が、誠実に書かれています。
 日本でも、綾瀬はるかさん主演でドラマ化されていましたね。
 ちなみにこれも映画化されています。


わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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わたしを離さないで Blu-ray BOX

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(3)忘れられた巨人
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 カズオ・イシグロの作品を読んでいて、いつも考えさせられるのは「人間は、自分の人生を本当に『自分で選択できる』のだろうか」ということなんですよ。
 選択できると思って、自分を安心させようとするけれど、実際は、ごく一部の英雄的な人間以外は「大きな力」みたいなものに流されて生きて、それを「自分では何もできなかった」と後悔するだけなのではないか。
 でも、それが不幸である、とも言いがたい。
 本人はそれなりに満足しながらも、「本当はこういうふうにできたかも」と「こうあったはずの自分の記憶」みたいなものをつくりだして、甘美な痛みに浸ることができる。
 

 この小説の冒頭のほうを読みながら、村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』と『海辺のカフカ』を僕は思い出していました。
 小説家というのは、功成り名を遂げると「神話」みたいなものを書きたくなるのだろうか?などと考えながら。


忘れられた巨人

忘れられた巨人



 『わたしたちが孤児だったころ』は未読で、短編集『夜想曲集』は感想を書いていませんでした(けっこう好きな作品だった記憶はあります)。
 そんなに多作な人ではないのですが、最初に読むなら、読みやすさ、面白さも含めて『わたしを離さないで』を強くお薦めしておきます。
 『日の名残り』の「執事文学の金字塔!」っていう雰囲気も大好きなんですけど。


 とりあえず、今年は、カズオ・イシグロさんにかんぱい!


fujipon.hatenablog.com

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