いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「キラキラネームをつけてしまう親」は、どんな人たちなのか?


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 「キラキラネーム」については、周期的に話題になるような感じがします。
 この林先生の話についても、「わかる」という言う人がいれば、「一塾講師の経験談でしかないので、統計学的に優位なのかどうかは不明で、真に受けるべきではない」と主張する人もいるんですよね。
 ちなみに、「キラキラネーム(またの名を『DQNドキュン)ネーム)」とは、「一般的には名前に使われないような言葉やマンガなどのキャラクター名を子どもにつけたもの」や「無理がある当て字などを用いていて、初見では読めない名前」のことです(ただし、明確な定義があるわけではありません)。
 


 林先生は、以前にも、著書のなかで、「キラキラネーム」について、こんな話をされていました。


(『いつやるか? 今でしょ!』(林修著/宝島社:2012年)より)

 ずいぶん前に、高校の先生と現代文の指導について話していたときのことです。生徒の成績表を見ながら、あれこれ話していたのですが、そのとき妙なことに気づきました。
 上位の生徒は「明子」、「良子」、「宏美」など普通に読める名前が圧倒的で、特に「子」がつく名前が多いのです。一方、下位になればなるほど「これなんと読むんですか?」と聞かなければならないような「難読」名が増えるのです。かなりの数のクラスがありましたが、すべてそうでした。
「こういう難しい名前の生徒の親は、クレームも多いんですよ」
 高校の先生は、そうもおっしゃっていました。僕は、これは単なる偶然ではないと思っています。
 親は自分の子どもが立派な人間になることを願って名前をつけます。あくまでも究極の目的は子どもが素晴らしい人間に成長することであって、名前はその過程において、なくてはならないものではありますが、1つの「道具」であることも事実なのです。
 人の名前を読み間違えることは失礼なことです。しかし、「普通」に読めないような名前は、やはり読めないのです。そういう名前をつけられた子どもは、誤読されて嫌な思いをする、あるいは、いちいち説明しなければならない煩わしさを一生抱えて生きていくことになるのです。だから「本質」がわかっている親は、「普通」の名前をつけるのです。だから「本質」がわかっている親は、「普通」の名前をつけるのです。こだわるべきは名前ではなく、その子のあり方そのものなんです。
 全員名前に「子」がつく、優秀な4姉妹のお母さんと偶然お話ししたとき、
谷崎潤一郎の『細雪』みたいですね」
 と言ったところ、
「すぐに女の子だってわかるからいいでしょう?」
 と、そのお母さんはにこやかに答えられました。その4人がすべて、単に成績が優秀というだけでなく、きちんとしつけられた「お嬢さん」であったことは、偶然ではないのです。「本質」をしっかり理解されたお母さんが、そしてご家族が、愛情を込めて育てられた、必然の結果だったのです。


 「難しい名前の生徒の親は、クレームも多い」というのは、小児科医ではない僕が夜間に子供の診療をする際にも、「そんな印象」はあったんですよね。これも、僕の経験論でしかありませんが。
 実際のところ、「キラキラネームと入学した大学の偏差値に統計学的有意差があるかどうか」を検証することは、このビッグデータ時代であれば、けっして無理ではないと思います。
 どこからが「キラキラネーム」なのか、あるいは「難関大学」の線引きをどのくらいにするのか、という難しさはあるとしても。
 とはいえ、そんな研究は「子どもの名前の優劣を偏差値で決めるなんていうのは、人権侵害だ!」なんて批判を浴びるリスクもあり、研究者としては、思いついてもなかなか手を出しづらいでしょうね。


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 2年前には、こんなタイトルの新書も出ています。

 日本語における当て字・当て読みという視点から考えてみると、急増している「読めない名前」は、かわいいわが子に個性的でステキな名前をプレゼントしたいと願うあまり、音も、漢字の意味も、画数も、どれもこれも最高なものを、と欲張ってあれこれ盛っているうちに、キラキラ化してしまったものと了解される。
 ステキな意味をもつ良い字だから、「心」と「愛」を使いたい。だったら、「心」を「ここ」、「愛」を「あ」と読ませてしまおう。そうすれば、「ここ」と「あ」で、「ここあ」と読める。まあ、かわいくていい名前じゃないの! ――どうやら、こんな具合に名づけされ、「わざわざ」ではなく、「いつの間にか」キラキラネームになっているようなのだ。
 そうしてでき上がった「心愛(ここ+あ)」には、正直ギョッとさせられる。だが、よくよく考えると、「修める」の「おさ」だけを使って「修巳(おさ+み)」とか、「有」の音読みの「ユウ」から「ユ」をとって「有美子(ゆみこ)」とするなど、こうした手法は昔から使われていた。
「光宙」にしても、じつは「光一」と書いて「ぴかいち」と読む語句がある。今でも使われているこの言葉は、もとは花札用語で、手札のうち一枚だけが「光り物」である手役のことをいう。「広辞苑」の見出し語にも、しっかり「ぴかいち【光一】」と採用されている。「光宙」でさえ、読み方としてはそう突飛なものとはいえないわけだ。
「名づけの常識」とは、私たちが思っているよりずっと頼りない。あっけないほど簡単に揺らいでしまうものなのだ。そう気づくと、キラキラネームの当て字感覚がそれほど常識はずれなものといえるのか、それすらだんだんと怪しく思えてくる。
 要するに、キラキラネーム現象というのは、「ヤンキー気質」などというマーケティング用語で云々する位相を通り越した、もっと根深いところで、日本語の体系の根幹に関係する問題なのである。


 僕はずっと、キラキラネームというのは、「夜露死苦(よろしく)」みたいな、ヤンキー文化の延長だと思いこんでいたのですが、実際は、必ずしもそうではないみたいなんですよ。

 また、「キラキラネーム」は日本だけの専売特許ではないことが、この新書のなかで紹介されています。

 2013年5月1日にAFP通信が伝えたところによると、ニュージーランド当局は申請を却下した赤ちゃんの名前77件を公開した。内務省が却下した赤ちゃんの名前には「Lucifer(=ルシファー、悪魔)、「Mafia No Fear(マフィア・ノー・フィアー、マフィア心配ない)や「Anal(=アナル、肛門)」、さらには「.」と書いて「フルストップ」と読ませる名前などがあった。
 他にも、アメリカ、イギリス、中国などの「奇名」が紹介されています。
 さすがにこれは、「ニュージーランド当局が受理しなくてよかった……」とホッとしてしまいます。


 ニュージーランドの事例は、あくまでも「却下されたもの」ですから、こんな名前の子どもは存在しないのですが…… 
 受理されたら、どうするつもりだったんだろう……
 

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  この本に「キラキラネーム」をつけられた子どもの末路、という項があります。
 「キラキラネーム」と揶揄される子どもの珍名・奇名については、あまりにも読みにくい名前だと労務管理上の問題があるとか、「人を馬鹿にしたような名前だと、取引先に悪印象を与えるのではないか」という配慮から、採用に慎重になる、という人事担当者もいるそうです。
 命名研究家の牧野恭仁さんの話です。

牧野:子どもを玩具にしているかのような「悪質なキラキラネーム」を付ける親はどんな人たちだと思いますか。


——それは、何と言いますか「民度があまり高くなく、社会ルールも積極的には守らない、どちらかと言えばアウトローな人たち」が思い浮かびますが……。


牧野:まったくの誤解です。奇抜な名前を付けようとする親の多くは、ごく普通の人たちです。階層も中流以上で、社会的地位もある大変真面目な人たちがすごく多い。


——なのに、なぜ……。


牧野:私の経験上、彼らには大きな共通項があります。「自分は個性的ではない」「抑圧された環境で没個性的な人生を余儀なくされてきた」という強い無力感、欠乏感を抱えているということです。そうした人たちが親になると、当然、子供には「個性的で格好いい人生」「環境に適応するのでなく自分で選んだ人生」を生きてほしいと願います。そんな思いが名付けの段階で暴走してしまう。これが「悪質なキラキラネーム」が生まれる最もありがちな構図です。


——「個性的な名前なら、人生も個性的になる」と安直に考えているわけですか。となると、我が子にキラキラネームを付ける親は、必要以上に個性的な人格になるような育て方をしてしまう、と。


牧野:いえ、そこが複雑なんですが、往々にして現実は逆になります。個性を磨いてほしいと口では言いながら、実際は「自分を押し殺して環境に適合せよ」「周囲に合わせて生きよ」と抑圧してしまう場合の方がずっと多い。
 そもそも、個性的に育てようとしても、自分はそう育てられていませんから、ノウハウを持ち合わせていません。一方で、自分が親から無意識のうちに刷り込まれた「集団の中で自分を主張するのは悪」「周囲に迎合して個性を埋没させるのが最も生きやすい」といった価値感は簡単にはぬぐえないから、結局はそれを我が子にも押し付ける。つまり、奇抜な名前の子ほど「周りを過剰に気にする没個性的な人格」に育ってしまうんです。


 これを読むと、キラキラネームが生まれる構図には、親のコンプレックスがあるのだなあ、と考えさせられます。
 「自分が普通の人間だから、子供には『個性的な名前』をつけたくなる」っていうのは、気持ちとしてはわかるのですが、それはそれで、いじめの対象になる、なんていう不都合な現実もあるわけです。
 子だくさんの時代であれば、また次の子どもが生まれるだろうから、あるいは、10人いても、何人かは戦争や病気や飢えで死ぬかもしれないから、ということで、上から一郎、次郎、三郎……なんていう、今の世の中でいえば、『ダービースタリオン』で馬の名前を考えるのに疲れた人みたいな名づけをしていた親も多かったんですよね。
 それが、いまは少子化で、乳児死亡率も低下し、「大事な大事な我が子に、特別な、オンリーワンの名前をつけてあげたい」という「普通の親」が、キラキラネームをつけているのです。
 しかしながら、難読名前をつけられた子供は、周りにからかわれたり、授業で出席を取られるたびに「自分の名前を読み間違えられて、訂正する」という悲しい思いをしたりするわけです。
 名前を間違われるっていうのは、けっこうつらいものですよね。


 さらに、生まれたときには希望をもって「特別な名前」をつけたはずの親は、育児においては、そんなに個性的にはなれない。
 ああ、なんかわかるなあ、そういうのって。
 もちろん、すべての人にあてはまるわけではないし、一昔前だったら「キラキラネーム」だったものが、もはや「普通の名前」になっている、というものもあるのですが。


 林先生は、大学院をやめるときに東大の総長が「彼がやめるのは日本の損失だ」と言ったという超優秀な予備校での同僚と、こんな話をしたことがあるそうです。

「単なる分類語なんだから、林一番、二番、三番で十分だよ」
 僕がそう言うと彼は、
「それさえ必要ないなぁ。僕はA328でかまいませんよ」


 「囚人みたいだ」と多くの人が憤るであろう「A328」も、こんなふうに考える人もいるのです。
 「他人と違うと自覚している人」は、名前で個性を主張する必要性なんて、感じないのかもしれません。
 「そんな特別な人間にはなれない」からこそ、名前にこだわってしまう。
 でも、名前が珍しいからといって、特別な人間になれるわけではないのですよね。
 その名前を背負って生きていくことを考えれば、「読みやすくて、由来を聞かれたときに、それらしい理由を話せるくらい」が丁度良いのではないでしょうか。
 そういえば、僕は学生時代、テストのたびに、「自分の名前が山口一(やまぐち・はじめ)とかだったら、今の名前よりも試験時間が長くなったのに!」とか、けっこう真剣に思っていました。
 本当にそうだったら、「何このシンプルすぎる名前!」とか思っていたんでしょうけど。


いつやるか? 今でしょ! (宝島SUGOI文庫)

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キラキラネームの大研究(新潮新書)

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