いつか電池がきれるまで

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『ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン』争奪戦と「転売屋問題」についての考察

togetter.com


 僕もこの『ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン』が欲しくて、ネットで予約しようと試みてみたのですが、手も足も出ない、という状況でした。
 ヨドバシカメラの行列とかをみていると、『ドラゴンクエスト11』の発売日でさえ、こんなに行列していなかったのに、昔のゲームの詰め合わせ(+新作1本)に、こんなに人が並ぶのか……と驚きました。
 ファミコンの『クラシックミニ』が、ずっと品薄で、なかなか手に入らない状況である(2018年に再生産が決まったそうですが)、というのも、「今、手に入れておかなければならない感」を煽っているのではないかと思われます。
 

 僕は『ファミコンミニ』を持っているのですが、発売後しばらく姿かたちも見たことがなく、発売から2か月くらい経ってから、近所のゲオにDVDを借りに行ったときに偶然置いてあるのを発見して購入したものです。
 そういえば、『SWITCH』も同じ店で買ったんだよなあ。これもちょっと覗いてみたらあったので、「お客さん、いまどき『SWITCH』は売り切れに決まってるじゃないですか」ってレジで言われるのではないかとドキドキしながら商品カードを持っていったら、あっさり買えたんですよね。
 田舎のゲームショップでは、マメにのぞいていると、都会のように「どうあがいても買えない」っていうことはあまりない感じはします。
 いまはネット通販が便利になって、みんな「まずAmazon」になってしまうのだけれど、ひと手間かけるのを覚悟で近所のゲームを扱っている店に行くと、よほどの人気商品(いまのSWITCHのような)でなければ、けっこうあっさり予約できてしまうものではあるんですよ。
 Amazonでは品切れのものでも、楽天ブックスとかをみると在庫がある、というのも少なくないし。
 Amazonはものすごく便利なのだけれど、だからこそ、Amazon一極集中で、それ以外は盲点になる、みたいなこともあるのかもしれません。


 前置きが長くなりましたが、僕は『ファミコンミニ』には「この値段で、これだけ懐かしいゲームが遊べる」ということに大いに満足しているのですが、その一方で、実際にこれでどのくらい遊んだかと言われると、正直、ひととおり触って、「懐かしいなあ~」って満足して、その後は思い出したように、『バルーンファイト』で、バルーントリップを1回やったり、『イー・アル・カンフー』の敵を一通り倒して満足するくらいの付き合いです。『イー・アル・カンフー』で遊ぶたびに、『スパルタンX』も入れてほしかったな、なんて思いつつ。


www.nintendo.co.jp


 僕は同世代のなかでは、かなりテレビゲームに時間を割いているほうだとは思うのですが、それでも、『ドラゴンクエスト11』や『スプラトゥーン2』もほとんど進んでいないなかで、『ファミコンミニ』を所有していることには満足していても、収録されているゲームを遊びつくすのは難しい。
 余命を考えれば、まだやったことがなくて、面白そうなゲームを先にやりたいな、と思うし。
 『ファミコンミニ』を買った他の人たちはどうなのだろうか?
 みんな、収録されているゲームをけっこうやりこんでいるのか、それとも、「コレクション」的な付き合い方をしているのか。


ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン』に関しても、入手したら同じことになりそうな感じがします。
topics.nintendo.co.jp

 
 ファミコンよりもボリュームがあって、クリアに時間がかかるゲームが多いだけに、かえって起動するのに腰が重くなりそうな予感もします。個人的には『かまいたちの夜』『風来のシレン』『タクティクス・オウガ』を入れてほしかったのだけれど、いろんなハードルもあるのでしょう。


 
 さて、冒頭の記事なのですが、「転売目的での購入者・予約者」が大勢いて、そのおかげで競争率が上がったり、メーカーの希望販売価格より高い値段での販売が横行したりしているのは間違いありません。
 「転売屋死すべし」という怨嗟の声は渦巻いていますし、僕もAmazonで定価よりも高く売られている商品をみると、すごく不快ではあるのです。買わないけどさ。
 ただ、Amazonは別に「静かにキレている」わけでもなんでもなくて、もともと定価より高く売られがちな商品に関しては、この「参考価格」を提示するのが慣例ですし、Amazonが本気で怒っていて、転売やプレミア価格での販売をやめさせようとするのであれば、「希望小売価格以上の金額での販売禁止」というシステムにすれば良いだけなんですよね。
 どちらかというと、こういう表示は、気づかずに高値で買ってしまった人や、自分は買わないけれど、高値で販売されていることそのものに憤りを感じるという利用者からのクレーム対策、という性格が強いのではないかと僕は思っています。
 
 
 僕もずっと「転売屋大嫌い」だったのですが、内心、ちょっと疑問もあったんですよね。
 たしかに、みんながなるべく安く買えたら良いだろうけど、「自分は少し高い金額を払っても良いから、早く手に入れたい」という人だっているのだろうな、って。
 別料金を払ったり、関連施設に宿泊することで得られたりする権利である、ディズニーランドの「ファストパス」や富士急ハイランドの「絶叫優先券」は許容されても、ゲームの「転売」がこんなに嫌われるのはなぜなのか?
 「転売屋」という中間搾取する存在が問題なのか、「定価で買えないこと」そのものが問題なのか?
 たとえば、任天堂が、自ら『ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン』については「参考価格は8618円だけど、1万5000円出してくれるお客様には、優先的に販売・発送します」という仕組みにすることは許されるのか?


 最近読んだ、『競争社会の歩き方』(大竹文雄著・中公新書)の冒頭で、「コンサートチケット転売問題」が検討されているのです。


 チケットストリートという転売業者社長の西山圭さんは、自らのブログで、こんな主張をされているそうです。
(買い占めによる価格の釣り上げは違法であり、定価よりも高くなった部分がアーティストの収入にはならないということについて理解した上で)

「『高額転売』と主催者側が一方的に決めるのには違和感を覚えます。高額かどうかを判断するのはライブを見るファンであって、アーティストでも主催者でもない。……『良い席で見たい、そのためにはお金を払ってもいい』というファンの要望は、自然なものではないでしょうか。……正当・公正な抽選なり先着順なりでチケットを手に入れた一般個人が自由にチケットを売る権利は、自由な市場を持つ資本主義経済の根幹として守るべき権利だと考えます」


(中略)


 チケット転売問題について、伝統的な経済学者の多くはチケットストリート社長の西山に賛成するだろう。なぜなら、チケット転売は、価値を生み出す正当な行為だからだ。チケットが高額であっても、売り買いする人は、その取引でどちらも便益を受けている。チケットを売る人は、チケットをもって自分でコンサートに行くよりは売った方がいいと思っているから売っている。


(中略)


 逆に、買い手はチケットが欲しかったけれど抽選に外れてしまったとか、気がついたら売り切れていたという人で、どうしてもコンサートに行きたいという人がいるだろう。どちらの人も、チケットの転売で得をしているのだ。


 コンサートの場合は、回数も席数も限られていて、欲しい人すべてに行き渡るまで増やすわけにはいかないでしょうから、ゲーム機とは違うのかもしれません。
 でも、転売業者の販売価格が高いと思えば、買わなければ済むだけの話です。
 無理やり買わされたり、そのせいでメーカー希望価格が上がるわけではない。
 その金額でも買う価値がある、と判断した人が、買うだけのことなんですよね。
 逆に、転売業者の見通しが外れて、参考価格以下で投げ売りしなければならない場合も少なからずあるはずです。

 では、チケット転売の問題点として音楽団体があげる「チケット転売のために、本当にチケットが欲しいファンに行き渡らない」という点はどうだろう。人気コンサートのチケットが抽選によってしか入手できない場合と高額であっても転売によって入手できる場合とで、どちらの方が、「本当にチケットが欲しいファン」にチケットが行き渡るかを考えればいい。チケットがどのくらい欲しいのか、的確に表す一つの指標は、そのチケットを手に入れるために、最大いくらの金額を払ってもいいか、という数字だと経済学者は考える。抽選制度の場合だと、抽選に当たる人の中には、その価格ならコンサートに行くけれどそれよりも高いとコンサートに行かなかったという、それほど熱烈ではないファンもいる。逆に、抽選に外れた人の中には、もっと高い価格を払ってでもコンサートに行きたいという熱烈なファンがいるだろう。
 抽選に外れた熱烈なファンは、高い価格でもチケットが欲しいと思っているし、抽選に当たった熱烈ではないファンならより高い価格であれば売りたいと考えているかもしれない。転売業者は、両者の願いを叶えることに成功しているのである。


 なんでもお金で判断するのは、いかがなものか、とは思いますよね。
 同じ「1万円」でも、「生活を切り詰める必要がある」という人もいれば、「そのくらいなら安いものだ」と考える人もいるのだから。
 とはいえ、「対象への愛情の強さを示す、お金じゃない客観的な指標」というのは、なかなか見つからないのです。
 あえて言えば「時間」なのだろうけれど、これも「もともと時間に余裕があるヒマな人が有利」になるだけ、とも言えます。

 こういう伝統的経済学の説明に対して拒否感をもつ人は多い。特に、アーティストを熱心に応援する程度を、「いくらまでならお金を出してチケットを買いたいと思うか」という指標で測るというのは適切ではないというものだ。熱心なファンであっても「お金がないからチケットが高くなったら買えない」のであって、熱心さが足りないというわけではない、というものである。確かにそのとおりだが、残念ながら人の気持ちの大小を比較することはできない。他人との比較ができるのは、気持ちの大小ではなくて、その行動をするのに、何かをどの程度犠牲にしてもいいか、という客観的な指標でしかない。それに、気持ちの問題なら、いくらでも嘘をつけることになる。
 では、金額の代わりに「チケットを購入するために何時間なら自分の時間を提供してもいいと思うか」という指標にすればいい、という意見はどうだろうか。それなら、行列に並んでもらって購入する制度が適切な熱意の測り方になる。アーティストは、その測り方がファンの熱意を測る方法として適切であると考え、そういう人にこそコンサートに来てもらいたいので、チケットを安く提供しているのかもしれない。この考え方ならアーティストが最大化したいのは、利潤ではなくて、「何時間でもチケット入手に時間をかけてくれるファンをコンサートに集めること」になる。この場合なら、チケット転売業者が存在するとせっかく時間をかけてチケットを入手する仕組みにしたのに、それを壊されてしまう、ということになる。しかし、抽選によって購入者を決める現在の制度は、時間をかけて熱心さを示すということにも対応していない。
「チケットが定価よりも高額で転売された利益はアーティストに還元されない」という指摘はどうだろうか。確かに、高い価格で売れた利益は、アーティストに還元されないというのは、アーティストにとって理不尽かもしれない。しかし、もともと抽選制だけの場合なら、アーティストにはそもそも高い利益は発生していなかったのだから、比較してもしかたがない。むしろ、アーティストに利益を還元するのなら、最初から高い価格でチケットを販売すればよかっただけである。


 ただし、一概に「それならもっと価格を高くすればいい」「転売に理がある」とも言い切れない感じもしますよね。

 人々が転売市場に嫌悪感を示す理由として、クルーガーがあげるのは、贈与交換という考え方だ。これは、ノーベル経済学賞を受賞したアカロフが唱えた考え方である。企業が相場以上の賃金を労働者に支払うと、相場賃金を超えた賃金部分を企業からの贈与だと労働者は理解し、贈与を受け取った分、それにお返しをするために、努力水準を高めるので、生産性が高まるという議論だ。アーティストが少し安い価格でチケットを売り出すことで、ファンはその分の贈与を受け取ったと感じるため、より熱狂的に応援することで贈与に対して応えるようになっているのではないか、というものだ。単に熱心に応援するだけでなく、安くしてもらったチケットに対して、コンサート会場でTシャツやタオルといった応援グッズを大量に買うことでアーティストに対して返礼していると考えることもできる。グッズの売り上げまで含めると、チケットを高めに売り出すよりは、アーティスト側の利益が大きいということになるかもしれない。
 この考え方からすれば、アーティストから贈与としてもらったものを転売業者に高値で売ることは、社会的に許されないことだとみなされても不思議はない。


 「ファミコンミニ」シリーズって、「これだけたくさんのゲームが遊べるゲーム機が、この価格で売られる」ということに対して、多くの人は「安い」あるいは「この価格なら適正で、欲しい」と感じているのだろうな、と思うんですよ。
 実際は、収録されているゲームのなかで、本当にやりたいものだけを3DSにダウンロードすれば、もっと安価で、遊びやすいのかもしれませんが。
 「ファミコンミニ」がそんなに多量に供給されなかったのは、任天堂にとっては、「ものすごく儲かる商品ではなかった」というのも大きいのだと思います。「ファミコンミニ」を買って、古いゲームに時間を使うのなら、3DSやSWITCHの新しいゲームを買って遊んでほしい、というのが、正直なところではないかと。プレイヤーの時間も有限ですから。
 任天堂にとっては、「ファンサービス」的な商品で、ファンへの「任天堂へのイメージアップ」あるいは「任天堂を思い出してくれること」を期待していたのに、それが高額で転売されてしまえば、かえって、イメージの悪化につながる、と危惧するのは理解できます。
 もっとたくさん生産すれば良いのに、と思うのだけれど、SWITCHも品薄のなかで、生産体制を整えるのは難しかったのでしょうね。
 任天堂のなかでの優先順位としては、間違いなくSWITCHのほうが上だろうし。


 ちなみに、クルーガーさんは、こんな解決法を提唱しているそうです。

 クルーガーは、価格メカニズムと行動経済学的な考え方の両方をうまく達成する方法を提案する。それは、コンサートチケットのうち一定数を主催者が直接ネットオークションで売ることにして、その時成立した価格が定価以上であれば、定価との差額を慈善団体に寄付するというものである。この方法は、どうしてもコンサートに行きたい人はオークションで市場価格を払えば、必ず実現できる。寄付を受ける慈善団体に寄付するというものである。この方法は、どうしてもコンサートに行きたい人はオークションで市場価格を払えば、必ず実現できる。寄付を受ける慈善団体にも便益がある。価格が高くなったとしても、それが寄付に回るのであれば、フェアな価格設定だと認識するだろうし、正規のチケットであるので、購入者は安心して買うことができる。オークション価格があるので、転売業者の価格がそれより高くなりすぎるということはなくなる。私には、とてもいい提案だと思える。チャリティ・コンサートということであれば、チケットが高額になっても誰も文句は言わないはずだ。


 『ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン』の場合は、「障がいを持つ人たちが楽しめるゲームを開発するための寄付金つきのパッケージ」を売る、という感じになるのかな。
 

 ものすごく「感じ悪い」転売屋なのですが、考えようによっては、「金に糸目をつけなければ、ネット経由で、贔屓のプロ野球チームの胴上げがかかった試合のチケットでも比較的簡単に入手できる」ようになったんですよね。ネット以前は、現場のダフ屋で買うしかなかったのに(僕自身は、ダフ屋を利用したことはありませんが)。
 期待ほど売れなかったものは、驚くほど安く投げ売りされていることも多いですし。
「転売屋がいなければ、欲しいひとすべてにメーカー希望価格で商品が行き渡る」かどうかもわかりません。
 単に「金に糸目をつけなくても、買えなくなる」だけになる可能性もあります。
 本当に、そのほうがいい、のかどうか。


 定価より高い値段で買うのは、なんか悔しいのですけどね、僕も。
 ただ、「3時間行列に並ぶくらいなら、3000円高くても並ばずに買いたい」っていう人がいるのも、わかるんですよね。
 「転売屋くたばれ!」「メーカー希望価格以下で売るべき!」で思考停止してしまうのではなくて、よりお互いにとってメリットの大きい売り方、買い方を考えてみるべき時期なのではないかと思うんですよ。
 

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