いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

その「認知の違い」は、埋められない。


僕はけっこういろんなブログを読んでいるのですが、映画や本の感想を書いている人が、「自分の記事にアクセスが集まるのもわかる。よく書けているもの」というようなことをつぶやいておられて、驚きました。
その記事かどうかはわからないけれど、僕はその人の映画の感想を読んで、「これって、WikipediaとYahoo映画の内容を切り貼りし、あらすじのネタバレで文字数を稼ぎ、『おすすめです。好きな人が見たら面白いと思いますよ!』って書いてあるだけじゃないか」と思ったのです。
「こんなの誰が読むんだよ、自分の言葉での感想らしきものがほとんどなくて、ただただ冗長で、有名サイトの内容をコピペし、ネタバレしているだけの『感想』なんて、その映画を観にはいかないけれど、観たふりをしたい人にしか役立たない、検索されやすさしか考えていないクソ記事じゃないか」というのが、僕の認識なんですよ。
僕だってあらすじとかも書きますけどね。でも、僕にとって感想というのは、「自分にとってどうなのか」なんですよ。
あらすじや登場人物の紹介は公式サイトやYahoo映画の領分だと思っていたし、極力これから観る人の楽しみを奪いたくないので、ネタバレも控えています。


僕は正直、そういう記事を書いている人たちはみんな「こういうのは自分の言葉じゃないし、面白くないのは百も承知だけど、Google様が優遇してくれて検索上位に表示され、お金になるからしょうがないよね」と割り切っているのだろうな、と思っていました。
でも、そうじゃなかった。
本人は、それを「いい記事」「自分の記事」だと自画自賛しているのです。
ああ、あれを自分自身では「良記事」だと本気で思っているのか……
そして、「そうだそうだ!」と賛同してくれる人たちもいる(これは本気なのか付き合いなのかわからないけど)。
あらためて考えてみると、当たり前のことなのですが、ネットに書かれているものの「善し悪し」や「価値」というのは、人それぞれ評価基準が違うのですよね。
僕も「長い」「三行で」とよく言われます。


僕にとっては、「それはあなたの言葉ではないでしょうよ」と言いたくなるようなものでも、それが「自分の言葉」であり、「世の中に有用」だと思っている人がいる。あちらの価値観からすれば「Googleではこっちのほうが上位に表示されるんだから、有意義であり良記事」なんですよね。
結局のところ、それが「善」だと認識している人たちに、「検索対策だけのクソ記事で、検索結果を荒らすな」なんて言っても、ネット原人たちがなんかほざいてる、くらいにしか感じられないのだろうなあ。
「説得」できるようなものではなし、そもそも、こちらが絶対に正しいというなんらかの証拠があるわけでもない。


なんというか、もうこれはどうしようもないのではないか、というか、こっちはこっちでやっていくしかないのだろうなあ。
そして、たぶん、「負ける」のは、こっち側なんだよね。


How Google Works

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