いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

同僚の「失恋したので、仕事休みます」を許せますか?


www.kandosaori.com


このタイトルをみて、うーむ、釣りか?と思いながら本文を読みました。
ものすごく簡潔にまとめてしまうと「(仕事そのもの以外の理由で)精神的につらい、という理由でイレギュラーに仕事を休むためのハードルが下がってきていて、そのことは本人にとってもプラスにならないのでは?」って話なんだろうな、と。


このエントリに対するブックマークコメントを読んだのですが、否定的な見解の人が多いようです。

b.hatena.ne.jp


冒頭のエントリを書かれている方には、こんなエントリがあって、
www.kandosaori.com
こういうときも「仕事はできる」という話なんですが、むしろ何もしないで、ひとりで休んでいてもらいたい、というのが周囲の気持ちなのではないか、とか邪推してしまうんですけどね。
(揚げ足取りみたいですみません)


ただ、この冒頭のエントリに対するブックマークコメントを読んでいると「タイトルに脊髄反射しすぎているのでは……」と感じるものも多いのです。
これはもう、最近のネットでの傾向みたいなもので、とにかく「目の前の、書き手を否定する」という流れになりやすいんですよね。
そして、そのほうがスターがついて「良い意見」として持ち上げられやすい。
そういう意見のなかには「そんなこと(あるいはそこまでは)もとのエントリには書かれていないのでは……」ということを「叩いている」ものが少なからずあります。


あまり先入観を持たずに読んでみると、

(1)「つらいとき」というのは身体的なトラブル(うつ病などの精神疾患も含む)ではなさそう
(2)「プライベートな問題」というのも肉親の急病などの「当事者として緊急に対応しなければならないもの」ではなさそう
(3)気分が落ち込んで何もする気がおきない、というときに、際限なく休むよりも、身体を動かすことで「物理的に日常に戻っていく」ことが効果的な場合もある
(4)ネットなどで「つらいときは休め」という意見が主流になってきているが、「つらいと感じるハードル」が下がりすぎて、休んだあとに自分をもう一度動かすタイミングを見失ってしまっている人が多いのではないか

ということではないか、と僕は判断しました。


癌でも、精神的に死にたいほど追いつめられても働け、というのではなく、親が死んでも舞台に立て、というのではなく、「家庭不和」だとか「失恋」だとか「彼氏と喧嘩した」とかいう理由で仕事を休んでも状況は改善するとは限らない、ってことを言いたかったのではないか、と。


……とは言ってみたものの、こういうのも「どこまで許容できるか」は人それぞれですよね。
ただ、僕の実感としては「仕事を休んでもどうにもならないこと」っていうのはあるし、時間が解決してくれる類のことであれば(大切な人の死によるショックとか失恋とか)、むしろ「時間をやりすごす」ことのほうが効果的なことがあるので、仕事をするというのもひとつの手段ではあるのかな、とは思います。


これを読みながら、母親が亡くなったあと、仕事に復帰した当日の夜に、患者さんが亡くなったのを思い出しました。
僕はまだ快復しきってはいなくて、率直なところ、人を看取るのが、つらくてしかたがなかったのです。
できれば、逃げ出したいというか、看取るために病院に行きたくなかった。
そして、死亡確認とお見送りをしたあと、アパートに戻ってきて、ひとりで涙を流しました。
悲しいとか、いろいろ思いだしてとか、そんなのじゃなくて、ただ、涙が止まらなくなったのです。
もちろん、亡くなられた患者さんの御家族は、そんな「背景」を知る必要はないし、あの日、職業人としての礼儀にかなった振る舞いができていればよかったのですが、ふだんと僕がちがっていたかは、自分ではわかりません。


そうやって仕事を繰り返していくうちに、僕はその悲しみを自分の中の納骨堂みたいなところに仕舞うことができるようになりました。
ときどき訪れて悲しみに浸ることはあるけれど、そのタイミングは、自分である程度コントロールできるようになったような気がします。
まあ、ずっと休んでいても、僕個人がたどった経過は同じだったのかもしれませんが。


実際のところ、僕はネットでの、ブックマークコメントでの人々の「寛容さ」と実社会での「厳しさ」を比べて、なんだかやりきれない気分になることがあるのです。
「つらいときは休め」の文化って、ネット上のPC(political correctness:ポリティカルコレクトネス(政治的正しさ))あるいは、HBC(Hatena Bookmark Correctness)以外のどこに存在しているのだろうか。


僕は医療職という「労働環境としては一般的にかなりブラックな仕事」に従事している人間なのですが、この仕事では、みんな学生時代からよく訓練されているためか、よほどのことがないと休まない人がほとんどです。
傍からみて、「もう、絶対休んだほうがいいって!」という状況で働き続けている人をみたことも一度や二度ではありません。
そもそも、そういう人が働くのは危険だろう、とは思うのですが、みんなギリギリのところで当直やシフトがあたっていて、「じゃあ、その人が休んだら、お前が2日連続で当直してくれるのか?」みたいな話になってしまう。
ネットでは、「それは上層部やシステムがおかしい」という結論になるし、その通りではあるんだけれど、現場的には、そんなこと言ったって、明日病院を急に休みにしたり救急外来を締めたり入院患者さんを他所に行ってもらうわけにはいかないんですよね。
まあほんと、「マッチョな仕事」ですよ。
そこに来る人には、それなりの覚悟と待遇があるんだろ、と言われればそれまでなんですが、ネットでの人々の寛容さをみると「なんでそっちとこっちは分断されているんだ、医療職だってごく一部の管理者を除けば『労働者』じゃないのか?」と言いたくなることもあります。


fujipon.hatenablog.com


正直、冒頭のエントリの最大の問題点は、どういうのを「プライベートな問題」と定義しているのかよくわからない、というところにあるのかな、と。

・肉親の急病
・肉親の介護
・家庭不和(急性期:昨日浮気が発覚した!などと、慢性期:ずっと夫婦仲が冷えきっていて精神的に参っている、など)
・失恋した。恋人と別れた
・恋人と喧嘩をした
・飼っているペットが死んだ
・ただなんとなく精神的な疲れがあって、働きたくない


「休む理由」として、あなたはどこまで許容できますか?
「自分が休む理由」と「他人が休む理由」では、許容範囲は同じですか?
「つらさ」は人それぞれだし、どこかで「線引き」できるものだろうか。
そもそも、これだって「なんで恋人との喧嘩のほうがペットの死より上に書いてあるんだ?」と思った人もいるはず(いちおう「順不同」です)。


僕はネットでの「つらい時は休め」という温かい言葉をみるたびに、「人間って本当は優しいのかなあ」と思う一方で、「でも、この人たちは、赤の他人の休養には寛容でも、自分の仕事に影響がある同僚の休みにも、こんなに寛容になれるのだろうか?」と考えてしまうのです。


休みたいときに、みんながそれぞれ休めて、サポートしあえるような社会、というのが理想ではあるのだけれど、実際には「我慢してしまう人が、割を食ってしまう」ことが多いんですよね。
仕事の総量が減らないかぎり、職種によっては、誰かが穴埋めをしなければならない。
その穴埋め役が自分であっても、「失恋したので休む」を受け入れられるのか?


率直に言うと、僕自身は、「やる気が出ないから休む」というレベルの人の話は「ネットでは聞いたことがあるけれど、実際に目のあたりにしたことはない」のです。
「失恋したから休む」もありません。


実際にそういう人がいるのだとしたら、「シフトを決める立場だったらキツいだろうな」というのが僕の感覚です。
だから、何も言う資格はないのかもしれないけれど、実在しないレベルの「ちょっとつらいから休む人」を想定することによって、「つらいから休む人」全体が否定されるのだとしたら、それはちょっとひどいよね。


もうひとつ言っておくならば、「つらいから休みたい」という人に対する仕事の現場の反応というのは「ネットで声高に叫んでいる人たちが求めているほど優しくない」けれど、「ネットの人たちが言っているほど冷酷でもない」感じがします。
「つらいから休む」も、ちゃんと理由を説明すれば、それなりの落としどころというか、休む側も休まれる側も70点、くらいの解決法がある場合が多いのです。


あと、ネットでは「仕事=悪」みたいな意見を少なからず見かけます。
電通過労死事件』のように、仕事や職場環境が本人を苦しめている状況は論外ですが、「失恋とか家庭不和で打ちのめされている」のであれば、「とにかく何かをして時間をやりすごす」ための「何か」として、「仕事」をするというのは、悪くない選択肢だと思うのです。
「旅行」や「睡眠」を選ぶか、「仕事」を選ぶかは、本人のキャラクターや好みの差でしかありません。
むしろ「やらなくてはならない」「お金になる」という動機付けがある分だけ、仕事のほうがラクに感じる人もいるはず。
もちろん、明らかに精神的に不安定な状態で、人の命やお金を預かるような仕事をしてはいけないけれど。


そもそも、仕事は必ずしも「悪いこと」「人生を縛るもの」ではないですよ。
働くことによって、自分が生きていることを実感できる、という人は、少なくないはず。
もちろん、人それぞれなのですが、「適切に、適度に働くこと」は、何もしないには大部分の人にとっては長すぎ、退屈すぎ、虚しすぎる人生をやり過ごすためのひとつの手段なのです。
いや、その「適切に、適度に」っていうのがいちばん難しい、というのは百も承知だし、僕も20年以上働いてきて、「これで良いのかなあ」って、思うことばかりなんですけどね。


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