いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ごはんを残す人」と「ごはんを残せない人」


anond.hatelabo.jp


まあ、いわゆる「釣り」というか、あえて人の心をざわつかせるように書かれているようにも思えるこのエントリ。
ブックマークコメントをみると、まさに「爆釣」状態となっています。

b.hatena.ne.jp


僕は子どものころ、「ご飯は他の生き物の命をいただいているのだから、感謝して食べなさい」と言われていたので、できるかぎり残さないようにはしています。
まあ、現実問題として、「ご飯を残さない人」というのは、残しまくる人よりは好印象を持たれがちなので、処世術としてそうしている、という面もあるんですよね。
自分の子どもがつくったご飯を食べないと、親というのは悲しいものですし。


これを読んでいて、僕は以前すごく話題になった、岡田斗司夫さんのこの本を思い出しました。
fujipon.hatenadiary.com

もう10年近く前になるんですね、これ。
この本のなかに、どうしてもポテトチップスが食べたくなったときには、我慢するのではなくて、買ってきて少しだけ食べて(それでだいたいは気持ちが満たされるから)、残りは捨ててしまえ、という話が出てくるのです。

 もったいないという気持ちは理性で押さえ込む。
「アフリカの飢えた子どもに、今からこのポテチは送れない!」
「ゴミ箱に捨ててもったいないのはお金だけ。自分のお腹に捨てたら、せっかくの今日までの努力が損をする」
「ここで200kcal食べたら、夕食を200kcal減らさなくてはならない。そのほうがもったいない!」
「次にまたポテチが食べたくなったら、コンビニまでいって買えばいい。買いにいくのが面倒なときは、それほど食べたいわけではない」


「もったいないから完食する」という考えは、本当に「正しい」のかどうか?
もったいないからといって、無理をして必要以上に食べて、身体をこわしたり、ダイエットに失敗してしまうのでは、誰も幸せにはなりません。
食べることがマイナスの効果を生むような状況で、無理して完食にこだわる必要はない。
まあ、そう言いながらも、僕もなかなか実践できないんですけどね、こういうのって。
不味いものだったら、「もったいないから食べよう」とは、なかなか思えないところもあるし。
そして、たしかに、目の前の食べ物を残したからといって、アフリカの子どもたちにそれがワープして届くわけでもない。
なんのかんの言って、「もったいない」というのは、食べたい人の言い訳、みたいなところもあるんですよね。
食べ物に感謝する、とはいっても、食べられる側は、「美味しく食べてくれてありがとう!」なんて考えないのではなかろうか。食べられたことはないので、よくわかりませんが。


もともと小食な人がいて、食べる量というのは一人一人違うのに、外食の場合の「一人前」はある程度固定されていますし。


いろいろ考えると、「残す」というのは必ずしも悪い面ばかりではないのです。
お腹を壊してでも完食してほしい、ダイエットに失敗しても食べ尽くしてほしい、とまで考えている人はほとんどいないはず。
むしろ僕は「出された分を残せない」ので、自分が食べられる分をきっちり把握して、コントロールできる人ってすごいな、と思うのです。


ただ、「無料だったら大盛りを頼んで、食べられなければ残す」というのは、なんだか腑に落ちないというか、違和感があります。
最初に読んだときには、「まあ、外食ではじめて入る店だと、どのくらいの量が出てくるか、わからないこともあるし、お腹が空いていたら、『とりあえず』っていうのはわからなくもないな」って思っていたのですが、考えてみると、そうじゃないな、って。


この『いつまでもデブと思うなよ』を読み返してみると、こんなくだりがあるのです。

「空腹がわからないなら、食べないですむ」と考えるかもしれない。
 違う。
 空腹がわからないから、空腹になる前にどんどん食べてしまうのだ。正確に言えば、満腹でなくなったら食べる。食べられるかなと考えたとき、何か食べられそうだったらさっそく食べる。
 そうやって、空腹になる前に食べ続けていたから、胃袋が空腹のサインを出すチャンスも、空腹のサインを感じるチャンスもなかったのだ。
 暇なとき、つまらないとき、すかさず何か食べたいと考える。たまたま食後すぐで、苦しいほど満腹の場合は(食後すぐは、いつも満腹で苦しいんだけど)、「残念、何も食べられない」とあきらめる。苦しくなれば、「チャ〜ンス! 何を食べよう」となる。
 お腹にほんの少しでも隙間ができたら、そこに嬉々として食べ物を詰め込む。せっかく何か食べられるのに、食べないなんてもったいないことは、考えられない。
「食べようと思えば食べられるんだから、食べないのは損」
 いつの間にか、そんな風に考えていたのだ。
 それが私だった。だから私は太っていたのだ。


 思い返してみると、大学時代に部活の練習のあと、いつも「おなかすいた〜」って口火を切っていたのは、すごくスリムな女性の先輩だったんですよね。僕はあの頃「この人はこんなに食いしん坊なのに、なんで痩せているんだろう?」とものすごく疑問だったのですけど、今はその理由がよくわかります。
 先輩は、「自分の『空腹感』を実感できるような、オンオフをきちんとつけた食生活をしていた」のです。だからちゃんと「空腹感」を自覚し、表に出すことができていた。
 それに対して僕はいつもダラダラと食べたり飲んだりしていて、「空腹でも満腹でもないけど、食事の時間だから、あるいは仕事が一区切りついたから食べる」という食生活でした。
 「そんなにお腹が空かない」のは、全く自慢にはならないのです。


 この増田さん(「はてな匿名ダイアリー」の著者は、こう呼ぶのが慣例)の話を読んでいると、「自分がいま食べられるであろう量を自分自身で把握できていない」ように思われます。
 初見の店では、どのくらいの量が出てくるかわからないだろう、という意見もあるかもしれませんが、店の雰囲気や周囲の人が食べているものをみれば、初見でもある程度は推測できるはず。
 外食の場合、「何を食べるか」「どの店を選ぶか」の時点で、すでに9割くらい「決まっている」。


 某有名ラーメン店(というか『二郎』)のように、外から眺めてみて、「ああ、みんな大盛りを頼んでいるんだな」と思っていたら、「あれが普通」と言われて悶絶、というケースもありますが、あの味が好きなんだけど、あんなに食べられない、という人は、どういうスタンスでいればいいのか、ちょっと悩ましいところです。
 量を食べられない人は来るな、なのか、「食べられる分だけ食べて、あとは店のペースを乱さないように残して帰って良い」のか。


 北条氏康じゃありませんが、ふだん、自分にとってちょうどいい分量くらいは、自分で把握しておいたほうが良いのだとは思います。あんまりうるさく言われると僕だって嫌だけど、食事をどうするのか、というのは自己管理の基本みたいなところはあるので。
 わざわざ大盛りを頼んで残す人というのは、マナーとか礼儀とか以前に、「この人、急に具合でも悪くなったのだろうか」と心配になります。
 残されると片付けも大変だし、あまり衛生的でもない。味が悪かったのではないかと、気にもなるのです。
 そういう意味では「ものすごく不味くても、我慢して食べろ」というのも、「百害あって一利なし」ではありますけどね。


 それでも、どうしても良好な関係を築きたい状況では、「食べる」ということが好感を持っている証だと受けとられることもあります。
 そういえば、昔、いかりや長介さんがアフリカに行ったとき、現地の人の食べ物に頑張って口をつけていたなあ。
 結局のところ、それが「文化」になってしまっている場合、それを自分の側の合理性で説得するのは極めて困難であるというのも事実なわけで。
 それがわかっているから、こうしてこのエントリが「匿名ダイアリー」にあげられている、のではなかろうか。


 時代によって変わってきているところもあって、今は「無理して食べなくてもいいよ」と考える人は多いのでしょうけどね。
 これを読んでいて、あらためて考えさせられたのは、世の中には、ものすごく微妙な領域に属する問題というか、「間違ってはいないはずなのだけれど、当事者から言われると、なんだか『開き直っている』ような感じがして、不快になってしまう考えかた」が少なからずあるのだな、ということです。


 ある俳優さんが事件を起こしたとして逮捕されましたが(不起訴になったけど)、そのお母さんが会見をしたことに対して、ネットでは、「成人がやったことなのだから、親は関係ないだろう」と言う人が少なからずいたのです。
 僕も、基本的にはそう思います。
 「どう思いますか?」と第三者から訊ねられたら、「親が謝罪会見をする必要はありませんよ」と答えるでしょう。
 とはいえ、もしあの母親が「息子は大人なので、自分は関係ありません。息子は息子、私は私です」とコメントして、会見もしなければ、僕は「それもなんかちょっと違う」と感じそうなんですよね。
 自分のスタンスとしては、「大人のやったことに、母親が出てくる必要はないだろう」のはずなのに、相手側から「それが当然」と言われると、不快になってしまう。
 理屈や合理性じゃなくて、相手の表面に出ている「態度」とか「姿勢」で、判断しているところがある。
 内心がどうかなんて、わからなくても。
 なんのかんの言っても、あの「謝罪会見」は、効いているのだと思います。
 もちろん、芸能人はイメージを売っているのだから、直接親が罪に問われるようなことはなくても、イメージダウンにつながるようなことを広告主が避けたがる、というのはわかるんですけどね。


 この増田さんの場合も、「食べ物を残すこと」が批判されているというよりは、「なんでそんな自慢にもならないことをドヤ顔で主張しているんだ?」と反発されているようにみえるのです。
 「こっちは、お金を払っているんだから」と言うのは、まさに「炎上誘発ワード」なので、あえてこういう言い方をしているのではないか、とも思われますが。
 個人的には「無理して食べずに、残してもいい」という世の中のほうが、生きやすいと思う。
 まあ、同じ量だけ、同じように残しても、見た目麗しい女性だと「少食なんですね」で済むことが多いだろうから、世の中は合理性より好感度、ということなのでしょう。
 僕の場合は「残さず食べて立派」と「だから太るんだよ」が半々くらいなんだよなあ。


 こういう「わかりやすいヒール」に、石を投げて快哉を叫ぶっていうのも、なんだか短絡的すぎる。
 プロレスでも、「悪役(ヒール)」のほうが難しくて、やりがいがある、なんて言われるそうですよ。
 ただ、こういう事例というのは、自分の「判断基準」が、いかに揺らぎやすいかを再確認する、良い機会でもあるとは思うんですよね。


fujipon.hatenadiary.com


いつまでもデブと思うなよ (新潮新書)

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いつまでもデブと思うなよ・電子版プラス

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