いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

僕は「旅行」が苦手な、薄っぺらい人間です。

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かなりバッシングされているみたいですが、僕はこのエントリ、そんなに嫌いじゃないです。
あれだけ「世界一周」を売りにして世の中に出てきて、「作家」として活動している人が、自分のルーツをあえて否定して、「あの世界一周って、風景などへの瞬間的な感動はあったけど、旅続きというのはそんなに楽しくなかった」って告白しているのは、すごく率直だよなあ、って。
沢木耕太郎さんが「『深夜特急』の旅って、ほんと、つまんなかった。旅について偉そうに語るヤツって、薄っぺらい」って言ったら、とか想像してしまいます。
もし万が一そんなこと思っていたとしても、言わないほうが、本人的には得ですよね。


彼女にとっては、「旅」とか「世界一周」とか「美人女子大生」というのは「世の中に自分を売り出すためのツール」でしかなかったということなのでしょう。
すごく正直で、好感を持ちました。


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この本のなかで、元ヒキコモリだったという髭男爵山田ルイ53世さんが、アルバイトでお金を貯めて、バックパッカーとして世界を巡っていたという友人に対して、こう述べています。

 ちなみに、僕がこの「自分探しの旅」に行く類の人間が嫌いになったのはそれ以来である。大体、そんなベタな趣旨の旅行、年間何万人と行っていることだろう。それだけの人数が決行し得る度など、もはや「冒険」でもなんでもない。それはすでに「アトラクション」とか、「ツアー」と呼ぶべきものだ。そもそも、今まで行ったこともないインドになぜ自分を探しに行くのかがよく分からない。いつそこに「自分」を落としたのか。
 といっても、やはり当時の自分には到底できない、行動し得ないことをやっている人間だという尊敬の念は、彼に対して持っていた。


世の中、旅行とか温泉とかって、なかなか「好きじゃない」って言いにくい雰囲気があるのですが、僕は苦手なんですよね。というか、出かける前は気分が高揚しているのだけれど、飛行機がとびはじめた瞬間にめんどくさくなってくる。飛行機で子供が泣き始めると、怖い人が乗っていないかどうか心配だし。


旅行に出て3日目くらいになると、「もうめんどくさいなあ、早く家に帰りたいなあ。仕事の電話が通じないのだけは旅のメリットだけどさ、英語でコミュニケーションとるの難しいし、子供は目を離せないし、チップの額とか考えるの大変だし、そもそもアウトドア好きじゃないし。ラスベガスでモノポリーのゲームとかやってたほうが楽しいけど、正直なところ、ラスベガスのスロットよりも、近所のパチンコ屋の『北斗無双』のほうが、まだ勝てそうだし、派手で楽しいんだよなあ。ブログ荒らされてないかなあ」という気分になってきます。


僕はだいたい、車を運転していると、突然後ろの車のブレーキが効かなくなって激突してきたらどうしよう、とか、床屋で「もしこの担当の人が突然殺人衝動に目覚めたらどうしよう」とか思ってしまうほうなので、旅行とかすると、とにかく疲れるのです。
海外の土産物屋で買い物をするだけでも『デッドライジング』の主人公になったような気分になってしまう。


旅行の楽しみとして、「現地の人たちとのふれあい」とか言う人をみるたびに、その溢れるコミュニケーション欲求が羨ましくてしかたありません。
ふれあってくる人って、めんどくさいあるいは危険な率が高いよ基本的に。
僕はそれが許される立場なら、マイケル・ジャクソンみたいに周りに人がいない状態で観光したい。
「物乞いは無視しましょう」って言われるし、無視するんだけど、無視したらしたで、なんとなく心が痛むわけですよ。
何かあげたらあげたで、「その子にだけ何かあげても、世界が変わるわけじゃないだろう、この偽善者!」とか自分を責めたりもするし。


ああ、でも、好きじゃないし、めんどくさいだけに「とりあえず海外旅行という関門を超えられた自分」を、ちょっと褒めてあげたい気分にはなりますね。
こんな書き方をしたら怒られそうですが、「部活のシゴキに耐えて最後までやり遂げると、そのシゴキそのものが『青春』だったと勘違いしてしまう現象」みたいなものかもしれません。


だいたいさ、「思い立って、一度世界をバックパック背負って巡ってきましたが、その後日常に戻りました」みたいな人だと、「面白い人率」が高いけれど、「ずっとそのまま世界をぐるぐる回っています」っていう人が、どんどん「性格が良い人」になっていく、っていう話は、聞いたことがありません。

「感動」はするけれど
人生観がそこまで変わったりはしません。


だから、そういうことで
人生観変わりましたとかって言ってる人は
人間として薄っぺらいと思う。


まあ、世の中には旅好きもいれば、僕みたいな出不精もいる、というのはみんなわかっているし、お互いを責めてもしょうがないんですよね。
ただまあ、世間的には「旅好き」のほうが、なんとなく立場が強いというか、中には「ずっと家にいたって、面白くないよ。旅に出ようよ!」と呼びかけてくる人もいて、僕などは辟易するわけです。
いやいやいや、僕はもうこれで、アレフガルドで十分ですから!
……などと言い切ってしまえるほど、僕は自分に自信がないので、「そうですねえ。やっぱり、旅ですかねえ」なんて薄ら笑いを浮かべるわけです。
だいたいさ、温泉とかも、なんでみんなでわざわざ大きなお風呂にいろいろ見せびらかしながら入りたがるのか僕にはよくわからないんだよね。めんどくさいな、って思う(当社比です。こういう人もいるということですので、あまり怒らないでね。こちらが少数派だということは、わかっております)。


逆に、「旅になんか出てもつまんないよ、家でDVD観ようよ!」とか言う人って、あんまりいませんよね。
現時点では、社会的に「旅好き」のほうがマジョリティというか、立場が強い。
まあ、「みんなが旅に出て消費してくれたほうが、いろんな業界も儲かるし……」というような事情で煽られている、というのもあるわけですが。
潜在的には「旅嫌い」って、けっこういると思うんだけど。


このエントリが炎上しているのは「人間として薄っぺらい」というネガティブワードが効いているのではないかという気がします。
そもそも「人生の薄さ」みたいなものって、誰かが判断できるようなものじゃないだろ、というか、僕が思うに「普通の人生って、みんなそれなりに厚みがあるような、薄っぺらいような、そんな曖昧なもの」ではないかと。
「美しい風景程度で、人生観変わるなんて、薄っぺら〜い」ってバカにするけどさ、普通の人生って、けっこうそんなものだよね。
 そのほうが「強制収容所に入れられた」とか「両親に虐待されていた」などということで厚みを増してしまった人生よりも、よっぽど幸せでもある。


 自分さがしの旅、なんていうのも、結局のところ、その薄っぺらさに何らかの「意味」みたいなものを見出したいという人間の「悪あがき」みたいなものなのかもしれないけれど、そこに疑問も抱かずに「わかったような気分になっている人間」「自分が薄っぺらくないと信じられる人間」って、僕は好きじゃない。
 

 基本的に、はあちゅうさんというのは、長谷川豊さんと同じ問題を抱えていて、それは「世の中をすべて自分基準で測ろうとしてしまう」ことなんですよね。


fujipon.hatenablog.com


 こういうのは、優秀な人(あるいは「優秀」だと言われて生きてきた人)に多いのだけれども、「世の中には、自分とは違う価値観を持っていたり、異なる環境で生きている人がいる」という想像力が欠けてしまっているのです。
 

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まあでも、この次のエントリを読むと「自分が書いたものを、自分が都合が良いように読み替えてしまう超能力」みたいなものを持っている人なのかもしれませんね。
どうせだったら、こんな言い訳を後付けでするよりは、突っ走ってしまったほうが面白かった……ような気もします。


「旅」については、この本を読んで、考えさせられるところがあって。
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 ぼくらはいま、ネットで世界中の情報が検索できる、世界中と繋がっていると思っています。台湾についても、インドについても、検索すればなんでもわかると思っています。しかし実際には、身体がどういう環境にあるかで、検索する言葉は変わる。欲望の状態で検索する言葉は変わり、見えてくる世界が変わる。裏返して言えば、いくら情報が溢れていても、適切な欲望がないとどうしようもない。


 いまの日本の若い世代――いや、日本人全体を見て思うのは、新しい情報への欲望が希薄になっているということです。ヤフーニュースを見て、ツイッタ―のトピックスを見て、みんな横並びで同じことばかり調べ続けている。最近は「ネットサーフィン」という言葉もすっかり聞かれなくなりました。サイトから別のサイトへ、というランダムな動きもなくなってきていますね。


 ぼくが休暇で海外に行くことが多いのは、日本語に囲まれている生活から脱出しないと精神的に休まらないからです。頭がリセットされない。日本国内にいるかぎり、九州に行っても北海道に行っても、一歩コンビニに入れば並んでる商品はみな同じ。書店に入っても、並んでる本はみな同じ。その環境が息苦しい。


 国境を越えると、言語も変わるし、商品名や看板を含めて自分を取り巻く記号の環境全体ががらりと変わる。だから海外に行くと、同じようにネットをやっていても見るサイトが変わってくる。最初の一日、二日は日本の習慣でツイッタ―や朝日新聞のサイトを見ていても、だんだんそういうもの全体がどうでもよくなっていく。そして日本では決して見ないようなサイトを訪れるようになっていく。自分の物理的な、身体の位置を変えることには、情報摂取の点で大きな意味がある。

 というわけで、本書では「若者よ旅に出よ!」と大声で呼びかけたいと思います。ただし、自分探しではなく、新たな検索ワードを探すための旅。ネットを離れリアルに戻る旅ではなく、より深くネットに潜るためにリアルを変える旅。

 東浩紀さんは「ネットに惑わされず、リアルに帰れ」というわけではなく、「ネットライフを充実させるため、現実の環境を変えろ」と言っているのです。


「何それ?」と最初は思ったのですが、たしかに同じような生活をしていると、同じようなサイトを巡り、同じような言葉を検索してしまうんですよね、とくに意識もしないまま。


 はあちゅうさんやイケダハヤトさんの「サロン」の狭い価値観に囚われてしまって、それ以外の世界が見えなくなってしまっている人にこそ「旅」が必要じゃないかと思うんですよ。
 人間なんて、所詮「ゼロ」であって、そこに何をインストールしているかの違いしかない。「薄っぺらい」のは事実だけれど、それはみんなそうであって、自覚しているかどうかなのです。


個人的には「旅行なんでめんどくさい」と思うような人ほど、無理矢理にでも、自分を「旅している状態」に投げ込んでみたほうが良いのではないか、という気はするんですけどね。
そういう人ほど、自分の世界の狭さとか、いまいるところの居心地の良さとかを、旅によって再認識することができるから。
あと、僕は年とともに「せっかくこの世界に生まれてきたんだから(そして、必ず死ぬのだから)、とりあえず、面白そうなものをなるべく見ておきたい、と思うようになりました。
僕が死んだら、そんな記憶なんて消え失せてしまうわけですが、だからこそ、僕は自分で見てみたい。
「絶景コンプガチャ」みたいなもの、なのだろうか……
若い頃は、ほんと、「わざわざお金出して、疲れに行かなくても……」って思っていたのだけれど。


ヒキコモリ漂流記

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