いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

結局、人間に「中身」なんて無いんじゃないかな。


昔、僕がまだ若かった(10代後半から、20歳くらいの)ときの話をしよう。
僕は自分のことが大嫌いで、家庭環境とか、行っている大学とか、自分のウジウジした性格とか、「これが好き!」って胸を張って言えるようなものが無い人間だった。
まあ、それは今もそういう傾向があるのだけれど。

その時期、僕はずっと考えていた。
容姿とかお金とか職業とか家柄とか特技とか、そういう「外側の飾り」には関係なく、自分という人間そのものを好きになってくれる人とのつながりこそ「真の愛情」のはずだ、と。

五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を全部失っても、「あなたがいい」というようなのが、真の愛情ではないのか、と。

(要するに「医学部すごいね」みたいなのがイヤだったんだと思う)

でも、結局のところ、自分の外側にあるもの、容姿とか学歴とか職業とかを、ひとつひとつ引きはがしてみると、僕は「空っぽ」だった。
銀河鉄道999』の車掌さんみたいだ(時間差ネタバレ)。
そもそも「心」とは何か、という話だ。
手と手をつないだ温もりがあればいい、とか思っていたけれど、あれは触覚だしさ。
考えてみると、何も感覚がないのに、心だけが存在するという状況こそ「完全な牢獄」ではないのか。

「性格」だと思っているものは、実際のところ、声色や喋り方だったり、ピンチになったときの行動パターンだったりするものだ。

たぶん、人間っていうのは、タマネギみたいなもので、空洞の周りに、いろんな飾りをつけている存在なのだろうと思う。
その「外側の飾り」こそが、「人間」と呼ばれているものを構成しているのだ。

僕は「人間は中身だ」とは思わなくなった。
「外側の飾り」こそが人間の本質なのだから、あとは、どの飾りを重視するか、なんだよね、たぶん。

人間って、自分たちが思い込んでいるほど、「人間」じゃないのかもしれない。


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