また「プロブロガー」的なものが話題になっているわけだけれども、彼らをみると、僕は競馬予想家という存在を思い出す。
競馬をやる人間にとっては、誰かが馬の状態を教えてくれないと知りようがないので、予想家(あるいはトラックマンという厩舎を取材する人)がいないと困るのは事実なんだけど。
競馬予想家のオッサンが地方競馬で台の上に立って、自分の予想を売っているのをみるたびに、僕は疑問だった。
「この人たち、売るほど自信があるのなら、その馬券を自分で買えばいいのに」
いや、こういうのは馬券の世界に限らなくて、株とかFXとかの「投資話」でもそうだと思う。
本当の「プロ馬券師」は、自分の予想を他者に教えたりはしない。
それによって、自分の馬券のオッズが下がる可能性だってあるわけだし。
この「卍」さんの本を読むと、本当に馬券で儲けている人の「身も蓋もなさ」がよくわかる。
確実に儲けるための馬券というのは、個々の馬のことなど考えずに「勝てる確率の割に人気がない(オッズが高い)馬を、ひたすら買い続ける」それだけのことなのだ。
もちろん、競馬の結果には不確定要素が多いから、当ったり外れたりするのだけれど、そういう期待値の高い試行を繰り返すと、トータルではプラスになりやすい。
2015年の有馬記念で、ゴールドシップの応援馬券を買うなんて、期待値的に考えれば、愚の骨頂だ。
いくら中山コース、そして有馬記念に実績があるとしても、引退レースということで人気になっていたし、ゲートをまともに出るかどうかもわからない馬なのだ。
とはいえ、僕のように、なんとか有馬記念だけは当てたい!と思って情を捨てたつもりで買ったリアファルは怪我で惨敗し、二番手評価のラブリーデイも終わってみれば「距離が長かった……」みたいな結果になると、「とにかくこの馬が好きだから」と、3コーナーでゴールドシップが捲くっていったときに大歓声をあげ、馬券が外れても「おつかれさま〜」とねぎらいの言葉をかけられる競馬ファンのほうが幸せだよな、とも思う。
中途半端は、何かとよくない。
でも、馬券を買う人間なら、それがどんな「応援馬券」であろうと、多かれ少なかれ、「これが的中すると良いんだけど」とは思うのではなかろうか。
本当に応援したいだけなら、馬券を買わなくてもいいわけだし。
ただ、競馬予想家というのは、所詮、自分が書いたものじゃなくて、セミナーとかをやったり「PVの稼ぎ方」みたいなもので信者を集める新興宗教ビジネスみたいなものではないか、と言われると、そうでもないような気がするのだ。
『競馬予想TV』というCSの番組がある。
週末に日曜日のメインレースを中心に4〜5人の予想家たちが自分の予想をぶつけあう、という競馬ファン以外には限りなくどうでもいい番組なのだけれど、ここに登場する予想家たちの予想って、本当に当らない。笑っちゃうほど当らないのだ。
一昨年の有馬記念、みんなで口を揃えて「ジェンティルドンナなんて来るわけない!」って言っていたら、ジェンティルドンナが感動のラストラン。
去年の有馬記念は、3人くらいリアファル本命がいたはずだ。
前述したように、リアファルは怪我でまともに走れず。
「逆神」というのはこういう人たちのことを言うのか、と考えてしまう。
まあ、ときどき穴馬を拾ってくれて、やっぱりプロだな、ということもあるのだけど。
この番組が面白いのは、とにかくこの「予想家」たちが個性的で、ヘンな(褒めてます)人たちである、ということなのだ。
独自の理論で、「何それ?」と思うような馬を推奨し、話を聞いていると、なんとなくその馬が来そうな気になってしまう。
結局のところ、競馬予想の世界には、「当たるかどうか」というのとは別に「面白い予想かどうか」「その人が、(キャラクターとして)面白い予想家かどうか」という価値感が存在しているのだと思う。
当らなくても、面白い予想家には、それなりの席が用意される。
みんな当てたいけれど、それ以上に、レースのことを考えているときくらいは、浮世を忘れたいのだ。
僕は、「このキーワードがお金になる!」とかいうツールを使って、それに従ってコンテンツをつくるようなブログは苦手だ。
大きな事故が起こった際に、「待ってました!」とばかりに、その事故や類似の事故に関するエントリをあげて、最後に「このような事故が二度と起こらないように、原因究明が待たれます」とか書いているのをみると、「そんなのはマスメディアに任せておけばいいのに」と思うし、ニュースをみて「これだ!」とエントリを書いている姿を想像すると気持ち悪い。
いや、僕だって、「訃報エントリ」を沢山書いているので、他人事ではない。
僕自身のなかでは、「亡くなった人のことについて、何かを語りたい」という気持ちが溢れてきたときだけ、そういうエントリを書くことに決めている。
だが、火事場泥棒的であることは否定できないし、そういうのが多くの人に読んでもらえることには、申し訳なさもある。
このあいだの「医者になりたくなかったけど、なってしまって生きている話」なども「書かずにいられなかったのだが、本人としては他人に読んでもらうことに恥ずかしさを感じる」文章だった。
ありがたいことに、あまり否定的な反応はなかったのだけれど、ああいうのは、「そんなら医者になんかなるなよ!」と炎上するのと「紙一重」ではあるのだ。
その「紙一重」の差は、10年以上ネットで書いていて、少しわかったような気もするし、やっぱりわからないような気もする。
というか、何がウケるかなんて、いまだによくわからない。
だからいまだに、ネットに文章を書くことは面白いし、怖い。
http://tm2501.hatenablog.comtm2501.hatenablog.com
青二才さんというブロガーが『はてな』にいる。
僕は青二才さんが、ときどきすごく羨ましくなる。
青二才さんのブログは、採りあげられているジャンル的には、あまり僕の好みではないし、文章も最後まで読み切れないことが多い。
だが、青二才さんという人の生きざまが、僕はとても気になるのだ。
この人の人生は、どこに向かっていくのだろう、と思う。
客観的にみれば、いろいろ大変そうなのだが、青二才さんは諦めないし、自分に自信を持ち続けている。
大部分のブログは「内容」よりも、「誰が、どんな人がそれを書いているか」が大事なのではないかと僕は思っている。
もちろん、文章の内容だけで多くの人を惹き付けるブログだってある。
だが、最後に生き残るのは「書いている人が(人間として)面白いブログ」ではなかろうか。
ブログにとって最高のコンテンツは、まちがいなく「その人自身」だ。
僕は長年「はてなの歴史」「インターネットコンテンツの歴史」をみてきたけれど、長続きしているものは、みんな「書いている人の顔の輪郭」みたいなものが見えるような気がする。
それは「顔出し」や「実名」の有無にかかわらず。
ももいろクローバーZが主演した映画のメイキングで、監督が、試写を観終えた『ももクロ』のメンバーに感想を聞く場面がある。
「どうだった?」
「うーん、ちょっと恥ずかしかった」
「それでいいんだよ、恥ずかしいくらいじゃないと、みんなに伝わらない」
こういうのって、どこまで自分をさらけ出せるか、という勝負になってしまって、僕などは、踏み込めない弱さがあるのだよなあ。
とはいえ、踏み込むことによるメリット、デメリットなどを考えると、小者としては、腰が引けてしまう。
ネットでは、「恥ずかしさ、という機能がインストールされていない書き手」に圧倒されることもある。
「恥ずかしい」だけならいいが、ちょっとカッコつけてネットで活動するというのは、細い吊り橋の上を全力疾走しているようなものだ。
誰かが、ちょっと揺らせば、バランスを崩して、真っ逆さま。
そこで生き残れるのは、谷底を観ない勇気があるものか、慎重に歩みを進めていくものか。
まあでも、いくら面白くても、あまりにも当らない、あるいは説得力がない予想じゃ、ダメだよね。
そのあたりの匙加減がまた、難しい。
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