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最近の「9月1日の図書館」をめぐるさまざまなやりとりをネットで見ていて、僕は以前読んだ、この西原理恵子さんの本のなかのエピソードを思い出しました。
たいへん「沁みる」作品で、はじめて読んだ時点では、もう大学を卒業してしまっていたのに、中学生の頃の自分に出会ったような気がしたのです。
本当は、この「はれた日は学校をやすんで その15 油性インクで」を西原さんの絵で読んでいただくのがいちばん良いとは思うのですが、いちおう、あらすじ的なものを紹介しておきます。
学校に行くのがイヤになった、という少女・めぐみは、「学校に行くことが正しい」ことは頭では理解しながらも、どうしても学校に閉じ込められているのがイヤでした。
飼っていた鳥が「ずっと檻のなかにいて、一度も空をとべなかった」ことを思い、「とこに閉じ込めていた私のこと、きらいだったかもしれない」と。
鳥は言葉がしゃべれないから、私にはわからなかった。
「だから私は、しゃべることにした」
ある日めぐみは、学校の壁に「だいきらい こんなとこ」と油性インクで落書きをしたのです。
それは学校で問題になり、翌日、その落書きは全部消されていたのだけど……(以下略)
「劇的」ではないし、短いのですが、僕はこの話がとても好きです。
どんなに偉い人、ちゃんとした人が、「正しいこと」を強要したとしても、「声なき声」は、存在している。
みんな、本当はそんなに「正しい人間」なんかじゃないし、そんなろくでもない自分のこともゆるしてほしい、認めてほしいと願っている。
まあでも、この年になると、いろいろ考えてみたりもするわけです。
大人だって、そんなに大人じゃないんだよな、って。
めぐみの落書きを消したのは「大人」だけれど、そのまわりに書かれていたものを徹底的には消さなかったのも「昔子どもだった大人」だったのかな、とか。
この「学校の壁」って、ネットみたいなものだよな、と僕はずっと思っていました。
「人には言えないこと」「社会的にいえば『正しくない』のだろうけど、吐き出してしまいたいこと」「自分はおかしいのではないか、と不安なこと」
昔の、20世紀のインターネットは、比較的そういうものに寛容で、ネガティブな内容にも、共感してくれる人がたくさんいたのです。
というか、「そういう人たち」が、最初にネットを開拓して、住みついていったのだろうと思う。
でも、時間とともに、ネットは「普通の人が住む場所」になった。
そして、「よくないもの、目障りなもの」を「正義」の名のもとに、叩く人も出てきた。
いや、他人事のように言うのはよくないよね。
僕だって、「これは許せん!」みたいな気持ちで、ネット上の「悪」を攻撃してきた。
「声なき声」のなかには、僕を苛立たせるものも、たくさんある。
ただ、一般的なものになり、利用者が増えるにつれて、かえって、ネットから「おおらかさ」が失われてきているのは感じるのです。
いや、それは仕方が無いことではある。
ネットが一般的になったおかげで、ブログとかやっていても、それだけで変人扱いされることは少なくなったし、それで幾ばくかのお金を稼ぐこともできるようになった(僕はそんなに稼げませんが)。
でも、あの西原さんが描いた学校の壁みたいだった時代のネットが、とても懐かしくなることがある。
あの頃のネットは、怪しげだけど寛容な「グレーゾーン」だったのです。
もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。
— 鎌倉市図書館 (@kamakura_tosyok) 2015, 8月 26
この鎌倉市図書館のtweetに込められた優しさ、みたいなものが、僕はとても心地よかった。
しかしながら、そこには「問題点」も少なからずある。
僕はこれを読んで、思ったのです。
図書館(あるいは図書室や保健室)に、「学校にどうしても行けない子どもたちの避難所」としての役割があるのは、たぶん、「既成事実」のはず。
でも、それを「公言」してしまうと、責任の所在とかを厳密に定義しなければならなくなって、その結果、「グレーゾーンであったが故に、みんなが黙認することができていた役割」を、果たすことができなくなる可能性が高くなってしまう。
「学校に行かずに図書館に来ている子どもに何かあったら、それは図書館の責任になるのか?」
いまの図書館の人的な余裕や仕事の専門性を考えると、「そこまで対応するのは無理」になってしまう。
となると、「身分証の提示など、子どもの入館制限」みたいな方向に、舵を切らざるをえなくなるかもしれません。
ネット上での提言って、「白か黒か」を突き詰めすぎてしまって、多くの人の幸せにつながらないことがある。
suminotiger.hatenadiary.jp
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この2つのエントリは、おそらく「正しい」と思う。
素人が中途半端な知識や独善的な姿勢で、他者のデリケートなところ、専門的なところに介入してくることが、かなり「迷惑」であることは僕も自分の仕事のなかで日々実感しています。
ただ、正直なところ、「とことんまで付き合える専門家だけが直接コミットすべき」というのは、ちょっと違和感があるのです。
人と人との関係って、そんなにシンプルなものじゃないと思うんですよ。
「ゼロ」か「とことんまでコミットすべき、責任を負うべき」かのどちらかしか選べないというのは、あまりにも整然としすぎているのではないだろうか。
「ちょっと声をかけてくるだけの大人」って、無責任だし、鬱陶しいですよね。
僕も子どもの頃は、そんな大人が大嫌いでした。
でも、大人になってみて思うのは、「人間なんて、無責任で、鬱陶しいものなのだ」ということであり、うるせえな、と思うような積み重ねで、人は守られているのではないか、ということなんですよ。
専門家以外は、「自分は勇気がないから」と遠巻きにして「見守っている」だけ、というのは、実際にその光景を想像してみると、それはそれで、不自然極まりないのではなかろうか。
そもそも、世の中に「見守るだけの大人」と「とことんまでコミットしてくれる大人」しかいなかったら、先日の事件のように「優しそうな態度で近づいてくる、悪意を秘めた大人」が現れたとき、それを見分けることができるだろうか?
率直なところ、僕自身は、そういう「積極的に声をかけられる大人」じゃありません。
知らない人に、声をかけようと思っても、そうそうかけられるようなものじゃない。
みんなが正しく振る舞う世界って、無菌室みたいなもので、かえって、何か起こったときに適応できない人を増やすのではないか、という気がするのです。
耐性をつけるために、あえて雑菌にさらす、というやり方も、あまり良いものとは思えないのだけれども。
これを書きながら、「『教育』っていうのは、みんな専門的な知識を持っているわけではないのに、自らの体験だけで『正義』を語りたがる」という言葉が、僕自身にも深々と突き刺さっているわけです。
これは、本当に難しい。
ただ、「何もしなくていいんだ!という人たちが、何かしなくては、と一時的にでも考えた人たちを『意識高い系』と嘲る」のは、違うと思う。
世の中の大部分は「ちょっと鬱陶しい大人」なのだし。
そもそも、そんなことより、まずは自分の子どもをちゃんと見てろよ、って話だよね。
それこそ、まず僕がやらなければならないことだ。