いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「なぜ人を殺してはいけないのか?」への処方箋

参考リンク:「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない - はてな村定点観測所


青少年による理不尽な殺人事件が起こるたびに、繰り返される問い。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
僕もこのことについて、ずいぶん考えた記憶があります。
でも、考えれば考えるほど、「でも、戦争のように『人を殺すことを要求される状況』もあるじゃないか」と、堂々巡りになってしまう。
そもそも、こういうのって、何十年も議論されてきて、万人を納得させる「公式解」は確立されていないのですから、今さら僕があれこれ考えても時間のムダかな、などとも思うのです。


とりあえず、何かの参考になるかもしれないので、何年か前、この問いがクローズアップされた際に、僕が「なるほど」と感じた二人の「答え」を紹介しておきます。


『下流志向』(内田樹著・講談社文庫)より。

 答えることのできない問いには答えなくてよいのです。
 以前テレビ番組の中で、「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけをした中学生がいて、その場にいた評論家たちが絶句したという事件がありました(あまりに流布した話なので、もしかすると「都市伝説」かもしれませんが)。でも、これは「絶句する」というのが正しい対応だったと僕は思います。「そのような問いがありうるとは思ってもいませんでした」と答えるのが「正解」という問いだって世の中にはあるんです。もし、絶句するだけでは当の中学生が納得しないようでしたら、その場でその中学生の首を絞め上げて、「はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください」とお願いするという手もあります。
 世界には戦争や災害で学ぶ機会そのものを奪われている子どもたちが無数にいます。他のどんなことよりも教育を受ける機会を切望している数億の子どもたちが世界中に存在することを知らない子どもたちだけが「学ぶことに何の意味があるんですか?」というような問いを口にすることができる。そして、自分たちがそのような問いを口にすることができるということそのものが歴史的に見て例外的な事態なのだということを、彼らは知りません。
 先ほどの「人を殺してどうしていけないのか?」と問う中学生は「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていません。同じように、「どうして教育を受けなければいけないのか?」と問う小学生は「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」を勘定に入れていません。自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、そのような「想定外」の問いを口にするのです。
 しかし、このような問いかけに対して、今の大人たちは、断固として絶句して、そのような問いは「ありえない」と斥けることができない。絶句しておろおろするか、子どもたちにもわかるような功利的な動機づけで子どもを勉強させようとする。子どもたちは、自分たちの差し出した問いが大人を絶句させるか、あるいは幼い知性でも理解できるような無内容な答えを引き出すか、そのどちらかであることを人生の早い時期に学んでしまいます。これはまことに不幸なことです。というのは、それがある種の達成感を彼らにもたらしてしまうからです。
 そして、この最初の成功の記憶によって、子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか? それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
 こうやって、「等価交換する子どもたち」が誕生します。


 僕もひとりの親として、自分の子どもにそんな質問をされたら、どう答えたらいいのだろう?と悩んでしまいます。
 つい最近までは、僕がこういう「大人を困らせるための質問」をする側だと思っていたのに。


 「どうして人を殺してはいけないのですか?」については、テレビの討論番組で採り上げられたこともありましたし、この問いに向き合った本も何冊か出ています。でも、僕はさまざまなメディアが、「命の大切さ」を訴えて、この中学生を「説得」しようとすることに、なんだかちょっと違和感がありました。


 いまの世界で生きていれば、宗教やイデオロギーの違い、あるいは、個人的な性癖などを理由に「殺してもいい、あるいは、殺すことが正義」だと主張する人間がいることも知っているでしょう。
 そんななかで、「どんな理由であっても、人を殺してはいけない」という「建前」のウソ臭さに反発したいのもわからなくはない。
 『北斗の拳』みたいな世界になったら、大部分の人は苦しむことになるでしょうけど。


 僕はこういう「他人の命なんて、どうでもいい」「自分はつねに『殺す側』だという想像しかできない」人間を「言葉だけで理解させること」が可能なのだろうか?と思うんですよ。
「それは教育の敗北だ」と言う人も多いだろうけど、まさに、ここで内田先生が書かれているように「その場でその中学生の首を絞め上げて、『はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください』とお願いする」しかないんじゃないかなあ。
 自分の子どもや生徒にそんなことをしたい教師や親はいないでしょう。僕だって、自分の息子の首を絞めるなんて、まっぴらごめんです。
 でも、その手しかないのかもしれない。


 もちろん、「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して、「一緒に真剣になって考える」べきなのだろうな、とも思うのです。もしかしたら、そうやって「真剣に考えてくれる大人」そのものを、子どもは必要としているのかもしれません。
 ただ、結局のところ、いまの日本で生活している子どもたちに「貧しい国の子どもたちは……」って話しても、「その国はその国、日本は日本」だと受け流されてしまいそう。それは、子どもだけの話じゃないのだけれども。


「自分や大事な人が殺されるのはイヤだから、自分も誰かを殺しちゃいけないんだよ」という「正論」は、はたして、こういう子どもたちを「説得」することができるのかなあ。
 僕は内心、「そういう子どもたちの大部分は、本気で疑問に思っているのではなく、大人を困らせてみたくてそんな質問をしている」だけなのだという気もするんですけどね。甘いのかな……



次に劇画家のさいとう、たかをさんの話を。
わたしが子どもだったころ』(NHKわたしが子どもだったころ」制作グループ編・ポプラ社)より。

 そのころ出会った大人で忘れられないのは、東郷という名の教師です。ある日、東郷先生は、学校でも札付きのワルだったわたしに声をかけてきました。

「斎藤だったかな」
「なんや、新米の教師か。いじめられへんようにおれにあいさつにでも来たんか」
「そんなわけないだろう。ちょっといいかな。東京から来た東郷だ。よろしくな」
「よろしくなやあるかい。なにをすかしとるんじゃ」
「斎藤、なんでおまえは答案用紙を書かないんだ」
「知れとるわ。こんなもん丸暗記したらすぐ解けるクイズやないか。おまえら大人が勝手に決めたルールやろが。だから書かへんのじゃ」
「おまえの言い分はわかった。ただし、名前は書け。白紙で出すという責任をおまえがとらなくちゃいけない。それは大人も子どもも同じだぞ。おまえみたいな生き方をしていると、常に後ろを気にしていなくちゃいけないぞ。ルールは従うものじゃない。守るものだ」

 あっ、人間社会というのはそんなものかと。六法全書を見ても「人を殺してはいけない」とは書いてありません。「人を殺したらこんな目に遭わせますよ」と書いているのであって、つまり善とか悪は約束事なんですね。その約束事からはみ出すなら、自分のなかに基準を持たなきゃいけないということがわかったんです。
 デューク東郷の場合も、善と悪の基準は自分のなかにあり、他者の善悪の観念とは関係がない。彼は人の命を奪ったあと、足下にいる蟻を踏まないようにまたいだりします。つまり、人間の命も蟻の命も同じなんですよ。そういう人間は現実の社会では生きられません。はみ出し者でも生きられたらいいなという感覚で、わたしは『ゴルゴ13』を描いたんでしょうね。


 さいとう・たかを先生は、中学時代、かなりの悪童だったそうです。

 仲間とつるんで進駐軍のジープにヤジを飛ばし、カメラ屋を襲撃し、花札をして遊ぶ。けんかに明け暮れて、学校は平気でさぼり、テストは白紙で出す。とにかく悪かった。

 そんなさいとう先生の「忘れられない大人」のエピソード。


 これを読んで、すごく勉強になりました。
 ああ、「ルール」って、こういうふうに子どもに教えるべきなのかもしれないな、って。
「なぜ、テストを白紙で出してはいけないのか?」
 その問いに関しては、「テストの成績が悪いと、将来困るから」なんて答えざるをえないのかな、と思っていたのですけど、それよりもこの「白紙でも出すのは構わないから、自分の名前は書け」というほうが、なんだかこう、ずっしりくるんですよね。
 「自分の行動には、責任を持たなくてはならない」
 でも、それができる人というのは、けっこう少ないんじゃないかと思うのです。
 僕だって、ネットにものを書くときに、匿名と実名とで、同じことを書けるかどうか、自信がありません。
 たかが名前を書くかどうか、それだけのことのようで、これは、けっこう重いことなのではないかと。

 
 この言葉の重さを中学時代に理解したさいとう先生も、「自分で責任を持って生きようとしていた人」だったのでしょうね。
 同じ話を聞いても、「じゃあ、名前書いておけばいいんだろ」って、開き直るだけの人も、少なからずいるはずだから。


 言われてみると、たしかに刑法には「人を殺したら、こういう罪になって、量刑はこのくらい」と書いてあるだけです。
 「殺すな」とは書いてない。
 法律があっても、人が人を殺すことは「可能」ではあるのです。
 それでも、『北斗の拳』みたいな世界にならないのは、「倫理」や「道徳心」があったり、「人を殺すことによって、罪に問われることは割にあわない」ので、それを実行に移す人は、ごく少数です。
 戦争になれば、「敵なら殺すのも正義」になったりするわけですけど。


 「おまえみたいな生き方をしていると、常に後ろを気にしていなくちゃいけないぞ」と言われたさいとう先生が、「俺の後ろに立つな」という決めゼリフの主人公を描き続けている、それもまた、何かの運命だったのかもしれません。



 今回の佐世保の事件を起こした女子学生は「成績優秀、スポーツにも才能を発揮していた」そうです。
 おそらく、「人を殺すことによって、自分の人生に今後生じてくる影響」も、理解はできていたはずです。
(もしかしたら、年齢的に死刑になるようなことはない、ということまで計算していたかもしれませんが)
 悪意や怨恨ではなくて、「興味」「好奇心」で、他人を殺してみたいと思う人間。
 正直、こういう性向を持つ子ども(に限らず、人間一般)を「言葉で説得する」ことができるのだろうか?と僕は思います。
 もしかしたら、「『世の中、そう決まってるんだ!』と激怒し、そんな子どもはぶん殴る」みたいなのが、いちばん正解に近いのではなかろうか。




下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

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