昔のゲームのことを思い出すと、そのゲームで遊んでいたときの自分のことも頭に浮かんできます。
僕にとってのファミコンの『スパルタンX』は、台風で中学校が休みになった日に遊びまくったゲームだし、スーパーファミコンの『ダービースタリオン』は、大きな試験を終えて、社会人として仕事を始める前のプレッシャーに押しつぶされそうだった日々の記憶とともにあるのです。
『俺の屍を越えてゆけ』というゲームが発売されたのは、いまから15年前、1999年のことでした。
僕はその頃、仕事を終えると、家でひたすらプレステでゲームをするか、覚えたてのネットサーフィンをしていたものです。
僕は、地に足がついていませんでした。
前年の暮れに、母親が長患いの末に亡くなって以来、なんだか、生きている実感みたいなものが、僕のなかから抜け落ちてしまっていたのです。
僕のことを殊更にかわいがってくれていた母親で、亡くなる前まで「自分のことはいいから、ちゃんと仕事をしなさい。でも、身体を大切にね」と僕に言い続けていました。
身体に深刻な問題を抱えている人に対しては「身体を大切にね」と言えないものだな、と僕は溜息をついてばかりで。
父親をその数年前に失い、母親も亡くなってからしばらくの間、僕はずっと、沈没していました。
なんとか仕事はしていたのだけれど、それ以外には(というか、仕事もつらかったのだけれども)、外に出るのも、他人の顔を見るのもひたすらめんどくさくなってしまって。
夜や休みの日はずっと、家のプレステとサターンで遊び続けていたのです。
テレビゲームは、いい。
「やるべきこと」を与えてくれるし、それは、「とりあえず時間をかければ、確実に前に進んでいくもの」だから。
何もしたくない、でも、何もしないと、時間が進むのが遅くて、耐えられない。
正直、親が長い間患っていたときには「こういう状況に、なんらかの決着がついたら、好きなことができるんだけどな」なんて思ったこともあったのです。
でも、実際に「自由」になってみると、僕は何もやりたくなくなってしまった。
そして、以前、そんなことを考えていた自分を、思い出しては、少し、責めました。
誰かが言っていました。
「親っていうのは、家の屋根みたいなものだ。無くなってしまっても、晴れた日の夜には星が見えて気持ちいい。だが、雨が降ると、いままでその存在に守られていたことを痛感せずにはいられない」
僕はもう20代の後半だったし、結婚はしていませんでしたが、それなりの大人になったと思っていました。
でも、僕は自分が思っていたほど、大人ではなかったし、親の存在に守られていたのです。
誰かが亡くなったときに、親身になって助けてくれる大人だけじゃない。むしろ、その隙につけ込もうとする人だっている。
母親がいなくなると、僕は、地球に帰る宇宙船を失った宇宙飛行士って、こんな気分なのかな、とふと思いました。地球に戻る気なんて、なかったはずなのにね。
『俺の屍を越えてゆけ』に出会ったのは、そんな時期でした。
雑誌での紹介をみて、「プレステとは思えないような、PCエンジンレベルのグラフィックだけど、『ダービースタリオン』好きには、向いているゲームなんじゃないかな」と。
そんなに集中力や反射神経も必要そうではなかったし。
最初は、「何これ?」という感じ。一昔前のRPGのような戦闘シーンと、なかなか成長しない自分のキャラに苛立ちました。
でも、最大の特徴は、「配合」にあったのです。
このゲームでは、主人公の一族は、「短命」(十数ヶ月しか生きられない、そのかわりに成長が早い)と人間との間に子供が作れないという呪いをかけられています。
そして、それをかわいそうに思った神々から、神と交合して子孫を残すことができるという能力を与えられているのです。
この神々も、さまざまな能力に秀でた者がいて、ある者は体力にすぐれ、あるものは魔力が強い。
火とか水とかの属性もあります。この神々と主人公の英雄一族を掛け合わせて行くことによって、ゲームは進んでいくのです。
当然、主人公一族は、次から次へと寿命を迎え、命を落としていきます。
でも、その子孫たちは次第に能力の高い神々と「交合」していけるため、一族全体が少しずつ強くなっていくのです。
また、能力がとくに高かった一族の者は、神として交合相手に加わることもあります。
こうして、少しずつレベルアップをしながら、敵の中ボスを倒していき、ラスボスを目指すというシステムなのです。ちなみに、最初の方のキャラでちょっとでも奥のほうに行こうものなら、あっという間に即死。
これって、『人間ダビスタ』だよなあ、と僕は思っていました。
ダビスタフリークなら、一度くらい、これを人間でやったら、どうなるんだろう?と思ったことがあるはず。
「俺屍」では、その禁断の想像を微妙な設定で、見事に実現してくれています。
一族の者は馬、神は種牡(牝)馬、神になった一族は種牡馬入り。
このゲームは、主人公が死んで世代交代していく前提でつくられていて、そういう意味でも、異質なのです。
まさに先祖の屍を越えて、一族は強化されていくのです。
人間の血の流れ、みたいなものをちょっとだけ考えさせられるゲームなんですよね。
ただ、僕がこれで遊んでいた時期は、とにかく「ボーッとしながら、少しでも強いキャラクターを作るのに没頭していた」というのが実感です。
血のドラマ、なんて、あんまり考えてはいませんでした。
とにかく、敵をたくさん倒して、レベルアップして、より強い神と交合して……そのくり返し。
それを続けていくと、たしかに「一族が強くなっていく手応え」が味わえるんですよね。
最後のほうは、もうクリアできそうなレベルになっているにもかかわらず、この世界から現実に戻るのがなんとなくイヤで、ダラダラとレベルアップを続けていました。
まあでも、いつまでもそうしてはいられないので、クリアしたんですよね、なんとか。
で、エンディングを観ていました。
(以下、ネタバレになってしまうので、これから遊びたい、という人は読まないほうがいいですよ)
(本当にネタバレだからね!)
エンディングでは、テーマ曲『花』とともに、これまでの一族のキャラクターたちが、ひとりひとり紹介されていきます。
ああ、コイツは突然変異的に強くて、だいぶ活躍してくれたよなあ、とか、すごく期待していたのに、ちょっと油断して死んでしまい、生き返ってくれなかったんだよなあ、とか、けっこう、いろんなことを覚えているものなんですよね。
実際にやったことは、敵と闘う、トレーニングする、交合する、そのくり返しのはずなのに、僕のなかには、それぞれのキャラクターのドラマができあがっていました。
その、けっこう長いエンディングの最後に、ずっと主人公に仕え、励ましてきてくれたキャラクターが、こう言ったのです。
「明日をバーンとォ!信じましょ」
ふふーん、って感じで、エンドロールを観ていたんですよ、それまでは。
でも、なんだかね、この言葉を聞いたとたんに、僕の中の、何かが決壊してしまって、涙が止まらなくなりました。
人っていつかは死んでしまう。
でも、死者から生者に受け継がれていくものも、なにかしらあるはずです。
生きたっていうのは、未来に何かを繋いだってことなんだよね。
それは、自分の血を分けた子供に限ったことではなくて。
もちろん、ゲームをクリアした直後に、「離人感」「世界にマッチしていない気分」が消えてしまった、なんていう都合の良い話ではありません。
実際は、少しずつ、感触が戻ってきたのだと思います。
ちょうど「その時期」でもあったのでしょう。
でも、僕はあのエンディングのひと言で泣いた日のことを、忘れない。
あれから、15年も経つのですね。
あらためて考えてみると、自分でもちょっと信じられないのだけれども。
『俺の屍を越えてゆけ2』が発売されたいま、僕には息子がいます。
15年前のあの日には、この世界に存在しなかった、命。
まさか、自分が人の親の立場になって、『俺の屍を越えてゆけ』の続編を遊ぶことになるとは。
人生って、わからないよなあ……
それでは、僕はそろそろ『俺の屍を越えてゆけ2』をはじめることにします。
なんだか遊び始める前から、自分でハードル上げまくっているような……