いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

日本人が知っておくべき「水俣病」の話

『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」という池上彰さんの著書に、水俣病がみつかった当時の話が書かれています。


水俣病」の原因が有機水銀であるという説が熊本大学から出されたのは1959年でした。

 これに対してチッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり、有機水銀は使っていない」と反論します。
 また、「日本化学工業協会」は、「戦時中、水俣市にあった海軍の弾薬庫の爆弾が、敗戦時に水俣湾に捨てられた。その弾薬が溶け出して水俣病を起こした」という説を主張します。
 厚生省(現・厚労省)の水俣食中毒部会は、熊本県衛生部と共に、敗戦時に水俣湾内に遺棄されたと見られる旧軍需物資について現地調査を行います。その結果、爆薬投棄の事実はないことが明らかになります。
 しかし、爆薬説を否定するためには、爆薬が遺棄された事実はないことをわざわざ実証しなければなりませんでした。それだけ対策が遅れたのです。
 さらに、当時の東京工業大学のある教授は、日本各地の魚介類が含有する水銀濃度と水俣湾の魚介類の水銀濃度を比較し、水俣のものより高い例もあるがそこでは奇病は発生していない(だから水銀が原因ではない)と報告します。
 代わりに「アミン説」を提唱します。「水俣湾の貝肉を繰り返し消化酵素で分解し、得られた液を実験動物に注射すると水俣病のような症状を起こして死ぬ」というものでした。


 要するに腐った液を動物に注射してみるという実験でした。医学的な知識などなくても、実験動物が死ぬことも、また水俣病とは全く関係がないこともわかるレベルのものでしたが、「東工大の教授が提唱」というだけで社会的影響力が大きく、原因究明は遅れたのです。「東工大」というブランドネームが悪用されることがあるのだということを、東工大の学生の君たちには知っておいてほしいのです。

 結局、「チッソの廃水が原因」との政府見解が確定するのは1968年になってからのことでした。

 これらの、結果が出たのちの2014年からみると、こじつけのようにしか見えない種々の学説で、水俣病の原因究明が遅れに遅れたことに、僕は憤りを感じます。
 「有機水銀説」が最初に出てから、約10年も要してしまったのですから。


 でも、原因がはっきりしていない時代では、「専門家がそう言い出したら、検証しないわけにもいかない」のは確かでしょう。
 彼らが、本当にそんな説を信じていたのか、いわゆる「御用学者」として、「牛歩戦術」を行っていたのかはわかりませんが……
 のちに提出された当時の資料では、チッソ側は、「有機水銀中毒」の可能性があること示唆した実験結果などを知っていながら、積極的な対策をとろうとしなかったようです。
 工場の排水を流す場所を変えるという場当たり的な対応で、結果的に汚染海域を広げたりもしています。


 悪意の有無はさておき、人間は、あるいは組織は、自分たちにとって不都合なものを、認めたがらないものです。
 それは、今も昔も、変わらない。
 

 むやみに不安をばらまいたりするのは、得策ではありません。
 でも、「自分が信じたいものを盲信する」のも危険です。
「ちゃんと注目してますよ、そう簡単には騙されませんよ」そんなサインを出し続けることが、自分たちの身を守ることにも、つながるのではないでしょうか。


 50年前と同じことが、いまはもう、行われていないという保証はないのです。
「いまの科学技術や倫理観は、50年前より、ずっと進んでいるはず」
 確かに、そうかもしれません。
 でもね、1959年に生きていた人も、たぶん「50年前より、ずっと進んでいるはず」だと思っていたはずです。



新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

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