いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「捨てられない子ども」だった。

我が家のリビングのソファーが、もうだいぶ古くなってしまっていて。
ずっと前から「このソファーを買い替えたい」と言っていた妻が、ついに決断をしたのです。


「明日、新しいソファーが来るから。今のは引き取ってもらうから」


買い替えたい、という話はずっと聞いていたので、ああ、「時期」が来たのだな、と僕は静かに受け止めました。
個人的には、けっして立派でもなく、高級感もなかったけれど、リクライニング機能つきのソファー、僕は嫌いじゃなかったんですけどね。まだ使えそうだけどな、などと思いつつ、しょうがないな、と。


そのとき、5歳の息子が、異議を唱えたのです。


「ええーっ、このソファー、ぼくのお気に入りだったのに……ちっちゃい頃から、ずっとこのソファーで遊んでたのに……新しいのなんて、いらない。このソファーが良いよ……」


僕は内心「ちっちゃい頃」って、お前まだ5歳だろ!とツッコミを入れつつも、5歳なりの「小さかったころの思い出」とか「ずっと家にあったソファーへの思い入れ」に、ちょっとしんみりしてしまいました。


ああ、お前は僕か、と。


僕は子どもの頃、とにかく「捨てられない子ども」だったんですよね。
古くなって、ボロボロになったドラえもんの枕カバーを延々と使っていたり、広告の裏に描いた絵、ミニカーの箱、昔のおもちゃ、とにかく、「捨てる」ことが苦手でした。
自分がずっと使っていたものが、ゴミ捨て場で淋しそうに泣いていたり、焼却場で焼かれていく姿を想像してしまって、「かわいそう」で。
そして、新しいものに変えるのが「裏切り行為」であるような気がして。
まあ、そんなことを考えながらも、そんなにものを大切にする子どもでもなかったし、実際に新しいものに変わってしまったら、けっこうあっさり受け入れていたのですけど。


親からしてみれば、「ボロボロになった枕カバーを『まだ使うから!捨てないで!!』と泣きながら訴える子ども」というのは、さぞかしめんどくさかったのではないかと思います。



狭い家のなかに、2つもソファーを置くわけにもいかず、僕たちは息子を説得しました。
結局、息子は泣きながら、ソファーと「おわかれの写真」を撮って、その日はずっと、ソファーによじのぼってジャンプしたり、ゴロゴロとソファーの上を転げ回ったりしていました。


「このソファーは、新しい持ち主のところで、またみんなに座ってもらえるからね」


なんで、あの頃は、あんなに「捨てられない子ども」だったのだろう?
そんなことを思い出す、息子の訴えでした。



そんな子どもだった僕も成長し、いまは立派な「捨てられない大人」になりました。

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