いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『地獄変』と、「ある天才マンガ家」の話

参考リンク:『地獄変』 - 藤子不二雄ファンはここにいる/koikesanの日記


 僕は芥川龍之介さんの作品のなかでは『地獄変』がいちばん好き(というか、ずっと心に引っかかっている)ので、このエントリを大変興味深く読ませていただきました。
 F先生への愛情と敬意も伝わってきて、読んでいて嬉しくなりましたし。


 それで、この記事で思ったことが2つありまして。


 ひとつめは、「言葉」って、便利だよなあ、ということ。

地獄変』の作中では、そんなひどいことをやってしまった良秀と大殿様に対し、彼らを悪く言う巷の声が挙がるわけですが、完成した良秀の絵は、そんな巷の声を黙らせてしまうほど強烈な力を持っていました。それほどの力を持った絵とはいったいどんなに凄いものなのだろう、と私もこの目で確認したくなってきました。さっき良秀や大殿様のむごたらしい所業にムカつきを感じたばかりなのに、そんな良秀や大殿様の所業の結果できあがったおぞましい絵に心誘われてしまう自分に、少々後ろめたさを感じたりもしました。

 もし『地獄変』が、マンガや映画だったとしたら、必ず、その「娘を焼き殺してまで描かれた絵』を登場させなければならないはずです。
 でも、どんなに有名で、実力があるマンガ家や画家が、この『地獄絵図』を描いたとしても、すべての読者を「満足」「納得」させるのは難しいと思うのです。
「自分のイメージとは違う」「このくらいでは、娘を焼き殺したという現実の重さにはとうていかなわない」と考える人が、必ず出てきます。
 というか、一歩引いて考えてみると「娘の命に見合うような絵」なんて、ありうるのかどうか?


 ところが、小説のなかで、

 所がその後一月ばかり経つて、愈々地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速それを御邸へ持つて出て、恭しく大殿様の御覧に供へました。丁度その時は僧都様も御居合はせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、流石にあの一帖の天地に吹き荒すさんでゐる火の嵐の恐しさに御驚きなすつたのでございませう。それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろ/\睨めつけていらしつたのが、思はず知らず膝を打つて、「出かし居つた」と仰有いました。この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすつた時の御容子も、未だに私は忘れません。
 それ以来あの男を悪く云ふものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もゐなくなりました。誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議に厳かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱を如実に感じるからでもございませうか。

と書かれていると、読者というのは、自分のなかで、「そういう絵」を想像し、つくりあげてしまうんですよね。
そして、なんだか「納得」してしまう。
もちろん、すべての小説にそんな荒技が可能なわけじゃないのですが。


ふたつめは、藤子・F・不二雄先生の話。
参考リンクのエントリでは、『地獄変』をモチーフにしたと思われる『エスパー魔美』のエピソードの、こんなやりとりが紹介されています。

「たとえばジャンヌ・ダルクの火刑を描くとしたら……モデルに火をつけてみたほうが、いい絵をかけると思う?」
 パパは答えます。
「なにをバカなことを!! モデルは素材にすぎん。それからイマジネーションをふくらませていくのが画家の仕事じゃないか!!」

 この「パパ」は、F先生の芸術観が反映されたキャラクターなのではないか、とid:koikesanは仰っていて、僕もそうなのだろうな、と感じました。


 この「パパ」の答えは「正論」であり、「人道的」です。
 ただ、「イマジネーションで描ける人」ばかりではないというのもまた事実。
 F先生の長年のパートナー、藤子不二雄A先生は、『78歳いまだまんが道を… 』という著者のなかで、こんなふうにF先生を評しておられます。

 漫画は頭で考える部分と、自分の実体験をふくらませる部分とがあります。もちろん、最初から最後まで空想で描く場合もありますが、ある程度現実が基になっていると、読者もリアルに感じて納得してくれるわけです。


「途中下車」の主人公のおじさんなんて、僕が現実に見た顔を絵にして描いたから、何ともいえないリアルな感じが出てると思うんですよ。読者も、ああ、本当にこういうことがあるかも知れないと。漫画に気持ちが入るというか。


 藤本氏はおそらく、全部、彼の想像力で考えていた。これは天才にしかできないことなんです。僕も最初はそうでしたが、だんだんと体験の部分が大きくなっていきました。最初はまったく同じスタートで出発した二人でしたが、次第に路線が分かれていった。トシをとるにつれ、経験をつむにつれ、二人の個性がはっきりしてきて別々の”まんが道”を進むようになっていったのです。


 絵師・良秀は、たぶん「想像力で描ける天才」ではなかったのだろうな、と。
 そして、だからこそ、『地獄変』という物語にこめられた「描くことへの背徳的なまでの執念」みたいなものは、天才ではない多くの人の心に、大きな引っ掻き傷をつくってしまうのではないかと思うのです。

 
 芸術とか創作っていうのは、罪深いものではありますね。
 それと同時に、多くの人を喜ばせ、生きがいを与えてくれるものでもあるのですけど。


 
参考リンク(2):『地獄変』(青空文庫)


78歳いまだまんが道を

78歳いまだまんが道を

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