いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

村上春樹さんの短編小説の「屈辱的表現」について

参考リンク:村上春樹氏:小説に「屈辱的表現」 町議ら文春に質問状へ - 毎日新聞


「屈辱的表現」って……
と思いながら、この記事を読んでみたのです。

作家の村上春樹氏が月刊誌「文芸春秋」の昨年12月号に発表した短編小説で、北海道中頓別(なかとんべつ)町ではたばこのポイ捨てが「普通のこと」と表現したのは事実に反するとして、同町議らが文芸春秋に真意を尋ねる質問状を近く送ることを決めた。町議は「町にとって屈辱的な内容。見過ごせない」と話している。


 この小説は「ドライブ・マイ・カー」。俳優の主人公が、専属運転手で中頓別町出身の24歳の女性「渡利みさき」と亡くなった妻の思い出などを車中で語り合う。みさきは同町について「一年の半分近く道路は凍結しています」と紹介。みさきが火のついたたばこを運転席の窓から捨てた際、主人公の感想として「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」との記載がある。


うーむ、村上春樹さんが直接エッセイなどで言っている、という話ではなく、村上さんの短編小説(フィクション)の登場人物が、中頓別町出身という設定の若い女性の「タバコのポイ捨て」を見て、そう思ったという記述がある、ということなんですよね。


僕も『ドライブ・マイ・カー』は読んだのですが、この部分にそんなにこだわりは持ちませんでした。
むしろ、主人公の飲酒運転のほうが問題じゃないか、と思ったくらいです。

 みさきはそれを聞いて少し安心したようだった。小さく短く息をつき、火のついた煙草をそのまま窓の外に弾いて捨てた。たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう。

この「タバコを窓の外に弾いて捨てる場面」というのは、主人公とみさきとの会話のなかで、みさきが「主人公との緊張感あふれるやりとりから」あるいは「都会で演技を続けて生きることから」、一時的にでも解放されたことを描いていると感じました。
ちなみに、ここまでの場面では、みさきが煙草をポイ捨てするような描写はひとつもありません。
基本的には、煙草のマナーや吸い殻の後始末には、十分気をつけている人です。
だからこそ、この「ポイ捨て描写」に意味があるのです。


ポイ捨ては見ていて腹立たしいものですが、この場面には、とくに不快感はありませんでしたし、中頓別町のモラルがどうこう、とも思いませんでした。
ただ、そう言われてみると「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」というのは「なくてもいい」というか「蛇足といえば蛇足」のようにも思われます。
その一方で、ずっと「プロの運転手」として自分を消してきたみさきが、「田舎で生活していた頃の生々しい自分を取り戻した瞬間」を描きたかった、という意図も感じるのです。
小説って、「ちょっと書き過ぎ」とか「書き足りなく思えるところ」みたいなのが、読んでいてけっこうフックとして心に引っかかることも多いのだよなあ。


『ドライブ・マイ・カー』は、「底知れない、おっさんの孤独」について、淡々と、でも、奥深いところまで描かれている佳作だし、僕は好きです。共感もしてしまいます。


この記事を読んだときには、正直「フィクションの中の人物が『思ったこと』まで制限される」ようになったら、小説なんて書けないのではないか」と感じたんですよね。
もっと酷いことを考えている架空の人物は、たくさんいますから。
むしろ、そういう異常なことを登場人物に託して書けるのが、フィクションの魅力でもあるわけで。


特定の人物ならともかく「街」というのは、表現の世界では、けっこう酷い目にあいがちです。
魔都香港」とか「東京には空がない」とか、大都市はしょっちゅう槍玉にあげられていますし、「インド旅行記」なんて、インド人が読んだら、「なんでバクシーシとリキシャの料金で揉めたこととガンジス川の不衛生さの話ばっかりなんだ」とか思っているのではなかろうか。


「世界のムラカミ」だからこそ、こんな「言いがかり」をつけられるのかな、とも感じました。


ただ、この記事を読んでみると、中頓別町の人たちの気持ちもわかるんですよね。

 町議有志は「町の9割が森林で防火意識が高く、車からのたばこのポイ捨てが『普通』というのはありえない」などとしている。宮崎泰宗(やすひろ)町議(30)は「村上氏の小説は世界中にファンがおり、誤解を与える可能性がある。回答が得られなければ町議会に何らかの決議案を提出したい」と話す。

この中頓別町の主な産業は林業と酪農だそうです。
この町の9割は森林で、地元の人たちは、木を大切にしてきたし、山火事にすごく注意を払ってきたのでしょう。
タバコのポイ捨てへの危機意識は、都会の人の比ではないはずです。
だからこそ、この短編小説での、タバコのポイ捨てに対する「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」という主人公の感想は、この町の人の「逆鱗に触れた」のだと思います。
田舎だとか過疎だとか言われるのはしょうがない(まあ、それは現実でもあるでしょうし)。
でも、ずっとみんなで気をつけてきた「防火」に対して、こんなふうに言われるのは許せない。
たとえそれが、フィクションの人物の「内心」であっても。
誰にだって「逆鱗」みたいなものはあるし、だからこそ、「狭量」という言葉で片付けるわけにもいきません。
この件については、中頓別町は、『壁と卵』のたとえでいえば「卵」のほうだと僕は思うので。


しかし、この小説でのみさきの故郷は「架空の町」ではやっぱりちょっとイメージがわきにくいしねえ。
現実的には、「この一文だけ削除」あるいは「どこかに注釈をつける」「架空の町にする」というような形で、決着するのだろうか。


ただ、この記述に問題はあるとしても、『ドライブ・マイ・カー』は、なかなか良い作品ですよ。
中年男が読むと、かなり重苦しい気分にはなりますけど。

 みさきは窓ガラスを下ろし、車のライターでマールボロに火をつけた。そして煙を大きく吸い込み、うまそうに目を細めた。しばらく肺に留めてから、窓の外にゆっくりと吐き出した。
「命取りになるぞ」と家福は言った。
「そんなことを言えば、生きていること自体が命取りです」とみさきは言った。
 家福は笑った。「ひとつの考え方ではある」



『ドライブ・マイ・カー』の掲載誌。そのうち、最近発表された短篇がまとめられて単行本になるとは思いますが。

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]


Kindle版もあります。

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