うちの息子をみていて、ときどき心配になるのです。
この口ばっかり達者なヤツは、幼稚園や学校でいじめられるのではなかろうか、なんて。
もちろん、現実的には「いじめる側」にまわってしまう可能性もあるのですが、両親が心配しているのは「いじめられる側」になることなんですよね。
で、親や祖父母に向けられる屁理屈にカチンときて、「そんな口のききかたしてたら、みんなに嫌われるよ!」とか、つい声を荒げてしまう。
そんなやりとりのあとで、考え込んでしまう。
「じゃあ、どうすれば、いじめられないのだろうか?」と。
いつも明るくハキハキと返事をして、勉強もスポーツも万能で、身なりも整えておく。
それならば、だいじょうぶなのか?
たぶん、だいじょうぶのような気がするのだけれど、なんだかモヤモヤする。
そもそも、そんな完璧超人な生き方ができる人は、ごく一握りでしかない。
僕はずっと「いじめは、とにかくいじめる側が悪い、いじめる側の問題なんだ」と(表向きは)教えられてきました。
「あいつの口のききかたが悪い」「不潔」「どんくさい」みたいな理由を振りかざして、「いじめられる側が悪い」というのは、間違っている、と。
さまざまな理由で、いや、理由なんてとくになくても、「場の空気」みたいなもので、いじめは起こる。
昨日いじめる側だった者も、明日はいじめられる側になってしまうこともある。
だから、「いじめられる理由」をあげつらうべきではない。
僕も、そう信じてきたつもりだったのです。
にもかかわらず、自分の子どもに対しては「いじめられないための攻略法」みたいなものがあるのではないか、と考えてしまっています。
ということは「いじめられる理由」があると考えている、ということなのです。
「いじめられるほうが悪い」と思いながら、子どもに「いじめるのは悪い」と言っている大人のことなんか、信じられないよね。
「いじめじゃなくて正当な批判だ」
「徒党を組んでいるわけじゃなくて、ひとりひとりの意思の偶然の集まりだ」(ところで、みんなに「あいついじめようぜ」っていちいち呼びかける人って存在するのかね?)
「殴られたからって、殴り返してきたら、お前も俺たちと一緒だ」
「こんなふうに解釈できる言葉を使うほうが悪い。どんなに説明しようが、お前の真意なんて知ったことじゃない」
「お前が俺たちに嫌われるようなことを言ったから、責められるんだぞ。悪いのはお前だ」
自分がいじめられたことがない人の「いじめられないための方法論」は、だいたい、根本的にズレている。
……ような気がする。
僕自身も、そんなに切実にいじめられたことがあるわけじゃないんだけどさ。
僕は思うのです。
「いじめ」という大きな力が襲いかかってきたときに、ひとりの人間に、何ができるのだろうか?と。
「リスクを下げる方法」だってあるのかもしれないけれど、「いじめられないための人生」って、そんなに良いものなのだろうか?
そして、いちど、その渦にとらわれてしまったら、もう、どうしようもないのではないか?
柴田元幸さんの『アメリカ文学のレッスン』という新書から、こんな言葉を紹介しておきます。
『白鯨』を書いたハーマン・メルヴィルの『ピエール』という小説の一節だそうです(訳は柴田元幸さん)
なぜなら、途方もない窮地に至った者の魂は、溺れかけている人間のようなものだからだ。危険のただなかにあることは自分でもよく承知している。危険の原因もよく承知している。にもかかわらず、海は海であり、溺れかけている人間は溺れるのだ。
いま、溺れている人に向かって「水泳の教本」を読み聞かせて、「なぜ、お前は泳ぐ練習をしていなかったんだ」とお説教することに意味はあるのだろうか。
それで、その人は救われるのだろうか。
まずは助け上げて、着替えさせて、温かい飲み物を飲ませ、落ち着かせることが先ではないのか。
僕は「いじめる側が悪い」と思います。
というか、思うようにしたい。
「いじめられるほうにも、原因がある」って考えやすい人間だと、自分でもわかっているからこそ。