いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「多読は絶対悪!」とは限らない

参考リンク:【書評】多読は絶対悪!百年前の毒舌家が警告「お前ら頭使って本読めよ」/「読書について」 - マトリョーシカ的日常


これを読んで、森博嗣先生が、以前、雑誌のインタビューで、こんな話をされていたのを思いだしました。

「基本的に再読はしないので読んだ本はとっておかないんです。だから、本棚もありません。雑誌には数十冊ほど目を通しますが、小説は年に3、4冊しか読めないんですよ。一冊読むのに2~3週間はかかりますから、書くのと同じくらいの時間がかかっていることになります」


 一度しか読まない代わりに、どのページに何が書いてあるかということが思い出せるくらい丹念に読む。繰り返し読むことはないのに、1日2時間で20ページほどしか進まないのだそうだ。


「だって、書いてある文章から世界を頭の中で構築しなくちゃいけないわけですから、すごく大変じゃないですか。むしろ、みんながどうして小説を早く読めるのかわからないですよ。僕は一度読んだストーリーは絶対忘れないし、自分の経験と同じくらい鮮明に覚えています。その点、頭の中にあることを書き留めるのは楽ですよね。小説を書くということは僕にとって頭の中の映像をメモするような感覚ですから」


森先生の例は、あまりにも極端かもしれませんが、読書にも「王道」はないし、多く読めばいいってことじゃないのは事実なのだと思います。


ただ、僕はもともとそんなに読むのが速いほうではないですし、いわゆる「一冊の本を5分で読むような速読法」をマスターしてもいません。
文庫本の一般的な文字の大きさくらいの小説だと、1時間に100〜150ページくらいのペースで読んでいます。
だいたい、新書1冊(200ページくらい)なら、1時間から、1時間半、といったところ。
もちろん、内容によっても変化しますし、1時間に50ページも読めない本もありますけど。


忙しさによって多少の波はありますが、平均すると、年間に、だいたい500冊くらい読んでいます。
まあ、それなりの数ではあると自分では思っているのですが、岡田斗司夫さんは、著書によると「18歳のときには累計1万冊くらいは読んでいた」そうです。
世の中には、ものすごい人がいるものだなあ、と、感心するというか、唖然としてしまうというか。


僕もたまに「数ばっかり読んでいるだけで、まともに読めていない」という意見をいただくのです。
自分でも「読みやすい、読了の快感を味わいやすいような本ばかり選んでいる」と感じていた時期があって、「とりあえず、一冊の本を、もっと時間をかけて読むようにしよう」と試みてみたことがありました。
実際、それなりの数を読んでいると、読み終えて1ヵ月くらいしてから「あの本には、どんなことが書いてあったっけ?」と思いだそうとすると、ほとんど何も覚えていないことに愕然としたりもしますし。


ところが、実際に「ゆっくり読む」ことを自分に課してみると、これが、すごく難しかった。
なるべく文字をゆっくり追って、書いてあることを頭でイメージしながら読み進めようとしたのですが、なんだかもう、すごくイライラしてくるんですよ。
ずっと交通渋滞にハマっているような感じです。
かえって、集中できなくなるんですよね。
で、時間をかけて読むと、ずっと覚えているかというと、とくに有意差があるとも思えず。
もちろん、森博嗣先生くらいの「精読」ができれば、一字一句までは無理でも、物語の概略や印象的な場面くらいは記憶に遺せると思うのですが……


あれこれ試みてみた結果、現時点では「どうせ読んでも忘れるのだから、忘れてしまうことを承知のうえで、インプットの総量を増やすほうが、結果的に頭に遺るものは多い」と考えています。
50ページ分を精読しても、頭に遺るのは30ページ分くらいなら、自分のペースで100ページ読んで、40ページ分遺したほうが良い……のではないかなあ。
(実際は、こんなに遺りませんけどね)


僕の場合は「少数精読」に、向いていないのではないかと思います。
せっかちなんでしょうね、自己認識以上に。
ただし、「本当にわからない、未知の世界の本」であれば、嫌でも「時間をかけて読む」しかないので、もしかしたら、「流し読みできるような、自分の守備範囲の本だけたくさん読んでも、あんまり意味がないぞ」というふうに考えるべきなのかもしれませんね。
「速読」を薦める人が読んでいる本って、他の本と違うところ(あんまりない)だけを拾っていけばいい、ビジネス書とか自己啓発書が多いみたいですし、ジョイスの『ユリシーズ』を速読したという話は、聴いたことがありませんから。


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