いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「他の子がイジメられているのを止めずに傍観しているのは、イジメに加担しているのと同じことだ」


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 僕が小学生から中学生くらいの頃にも「イジメ」というのは存在していました。
 というか、僕のクラスにもそれらしきものはありました。
 僕自身はいじめる側に加担することはなかったのですが、いじめを積極的にやめさせようともしていませんでした。クラスの中で、いちばん小さな、ちょっとマニアックなテレビゲーム好きグループの中のひとりとして、毎日、学校嫌だなあ、と思いながら通学していた記憶があります。体育の時間がイヤだったし、何かの折に「じゃあ誰かと2人組になって」とか言われるのがきつかった。
 当時、学校では「他の子がイジメられているのを止めずに傍観しているのは、イジメに加担しているのと同じことだ」と言われていた記憶があります。もう35年以上昔の話になるので、いまの子どもたちに対しては、どう教えられているのかは知らないけれど。

 冒頭に挙げた2つの事例に対して、(報じられていることが事実であるならば)僕は加害者たちの行為に憤りを感じますし、なんでそんなことをするのか、他人を傷つけるのがそんなに楽しいのか、と思うのです。いや、正直言うと、僕にも「他人を傷つける快感」や「他人を言いなりにさせたい欲望」みたいなものもあるんですよね。だから、自分が怖くもある。
 
 この2つの事例で挙げられている、出川哲朗さんや、旭川の事件で取材を受けた加害グループのひとりは、「自分は直接手を下していない。その場にいて、加害者の行為を積極的に止めなかった」のです。
 
 僕はこういうニュースをみると、「なんで周りは権力者の暴走を止めなかったんだ!」と憤りつつも、考え込んでしまうのです。
 
 もし、自分がその場にいたら、「性暴力やいじめの加害者であり、その場で圧倒的な権力を持っている人間」に「そんなことは許されない、やめろ!」と言えただろうか?

 いま(2021年)の出川さんの芸能界での立場であれば、「島田紳助さんを諫める」あるいは「その場をうまくとりなす」ことも可能だと思うのですが、15年前の出川さん(ちなみに、出川さんの事務所はこの事件そのものを否定しています)には、おそらく、そんな力はなく、紳助さんに睨まれたら厳しい立場に追いやられていたかもしれません。
 「仕事がなくなるのと人間としての尊厳が踏みにじられるのは差がありすぎる」と思うかもしれないけれど、人というのは、自分の損害は高く見積もるし、他者の被害は軽く感じやすいものです。「性」を利用して成り上がるのも手段のひとつだ、と、本気で信じていた可能性だって、無くはない。

 旭川の事件でも、「スクールカースト上位」のイジメの首謀者たちに逆らったら、自分が次のターゲットになる可能性が高い。それでも、「そんなことはやめろ」と言えるのか。

 そもそも、セクハラ、パワハラをやる人というのは、その場のそういう「自分に逆らえる人がいない」というパワーバランスを見抜く力に長けている場合が多いですし。


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 「自分がターゲットになるのを恐れて、黙認、あるいは内心では「こんなのは嫌だ」と思っていても加わってしまう、ということが多いのだと僕は想像するのです。でも、被害者側は「なんであいつらは助けてくれないんだ、あの場でニヤニヤしているだけなんだ」って思うし、恨むよねそれは。

 「イジメを止めようとせずに、傍観するのもイジメているのと一緒。そういう人たちの存在が、イジメがなくならない原因になっている」というのは、正しいとは思うのです。
 もし、みんなが「悪、即、斬」という姿勢を貫いて、イジメやハラスメントを告発していたら、こんな世の中には、たぶんなっていなかった。
 実際は、イジメられている側というのは、ものすごく視野が狭くなってしまって、「自分がされていることを告発すれば、もっとひどいイジメを受ける」とか、「子どものあいだでの問題を大人にチクる(言いつける)のは恥ずかしい」と思い込んでしまうものでもあります。いや、イジメを傍観しているだけの人も、そういう視野狭窄のなかにいるのです。


 こんなことが起こるのは「子どもだから」「芸能界だから」なのか?


 日本が太平洋戦争に負けたとき、ユーラシア大陸から日本の本土に引き揚げてくる途中で、大勢の日本人女性たちが、「戦勝国」の兵士たちの慰みものにされたそうです。
 引揚者たちが詰め込まれ、輸送されるなかで、女性が「指名」され、連れ出されていき、周りの人たちは、拝むようにしながら、彼女たちから目を背ける。それでいて、翌朝、彼女たちが戻ってきたら、「穢れたもの」として敬遠した。


 正しさ、って何なんだろう。
 こんなの、戦争に勝ったからといって、道義的に許されることではない、はずです。
 でも、その場で、敵国の兵士たちに抗議すれば、ひどい目にあうに決まっています。殺されるかもしれない。
 それでも、あの場にいた引揚者たちは、正論を吐いて立ち向かうべきだったのか。
 相手が正しかろうが間違っていようが、撃たれたり、刺されたりしたら人は死ぬ。
 自分の大切な人であれば、命懸けで立ち向かうかもしれないけれど、所詮は「他人」です。

 おそらく、女性たちを拝むしかなかった人たちも、罪の意識は持ち続けていたはずです。程度の大小はあるにせよ。
 彼らが悪いことをしたから、そうなったわけではない。でも、その場にいれば、何かをするか、しないか、という選択をせざるをえない。
 そして、その選択肢は、どちらを選んだとしても、バッドエンドにしかつながらない。


カルネアデスの板」というのをご存知でしょうか?

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船が難破したときに,1人しかつかまれない板にしがみついている人間を突き落として板を奪い,みずから助かることはゆるされるか?


 もちろん、「カルネアデスの板」は、自分と相手の生命がかかっている、緊急で他の対処法がない状況、という前提になっています。
 出川さんや旭川の事件の加害グループの一員に対しては「他の対処法」があったのではないか、と、事後に客観的にみることができる僕としては考えてしまうのです。
 でも、実際にその場にいるのが自分だと想像したら、「芸能人としての未来が閉ざされるかもしれないリスク」や「自分がこんな酷いイジメの次のターゲットにされる恐怖」を乗り越えて、闘うことができただろうか?
 なんでこんな面倒なことに巻き込まれてしまったんだ、と、自分の運の悪さを呪うだけかもしれない。

 その一方で、「こういうときは、何もできなくても仕方がないよね」と、みんなが諦め、黙認を正当化してしまったら、「ハラスメントやりたい放題の社会」になってしまう。

 その場に居合わせたことが不運、ではあるけれど、その不運は、誰にでも訪れる可能性はあるのです。
 だから、心の準備は、しておくに越したことはない。


 今日、こんな記事をみました。
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 世の中の「建前」と「本音」って、分裂しつづけているのです。
 ネット社会になって、ネット上では「正しすぎる建前」で、他者を責める人が大勢いるのだけれど、実際に生きている「身の周り」では、「身内の恥をさらすな」「仲間を『告発』するな」「面倒事を増やすな」が主流のように僕は感じています。

 ただ、「ネット社会」になって、さまざまなハラスメントや理不尽な扱いを、直接利害関係のない多くの人々に直接訴えることができるようになったのも事実なのです。
 SNSが普及したおかげで(最近は新型コロナの影響で外出が減ったのもあるのでしょうけど)、公共の場で傍若無人なふるまいをする人は、だいぶ減ってきたように思うのです。

 それを、「相互監視社会」と呼ぶ人もいるのだけれど、僕は最近、それも悪くないんじゃないか、と考えるようになってきました。
 国家による思想統制、みたいなものにつながる、という意見も理解はできますし、「息苦しい」と感じることはあるのだけれど、結果的にこうなってきたのは、そのほうが生きやすい、リスクが減る、と感じている人が増えてきたからではないでしょうか。


 自分が生きている、見えている世界の、もうひとつ外側の世界は、けっこう広いし、あなたの味方をしてくれる人もいる。

 もちろん、そういうのが通用するのは、「戦時下」とか「ネットの自由が制限されている環境」ではない、という条件付きではありますが。

 僕は、イジメって、「やらずにはいられない人がいる」のではないか、と半世紀くらい生きていて感じるのです。
 彼らを「正しさ」で説得するのは、難しいのではなかろうか。
 だからこそ、「傍観しないで止める人」「告発する人」が、白眼視されず、応援・支援される社会にすることが必要なのだと思います。それはそれで、冤罪とか「オーバーキル」のリスクもあるのですが。

 「他の子がイジメられているのを止めずに傍観しているのは、イジメに加担しているのと同じことだ」と僕が子どもの頃に言われてから、40年が経っているのです。
 テクノロジーは進歩しているのに、人間は、あまり変わっていない。
 いっそのこと、みんながAI(人工知能)に従って生きたほうが良いのではなかろうか。
 ただ、AIに「判断基準」をプログラムするのも人間、なんだよなあ……


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