いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

電車内喫煙を注意した高校生が暴行された事件で、東名高速で起こったことを思い出した。


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 なんてひどいヤツなんだ、みんなが関わらないようにしているなかで、勇気を出して注意したこの高校生は立派だ!
 
 そう思う一方で、これからまだ楽しいこともたくさんあるはずの若者が、こんなことで危険な目にあうなんて割に合わないよなあ、「スルー力」を発揮したほうが良かったんじゃないかなあ、話が伝わる相手なら、この御時世で車内喫煙とかしないだろうし、と僕も考えたのです。
 そう考えたあとに、自分も「世の中には、説得不可能(あるいは至難)な、関わってはいけない人がいる」と判断している人間になってしまったことが、少し悲しくなりました。僕も中学生くらいの頃だったら、「そんなの差別的な考えだ」「自分さえ良ければ、みんなが困っていても、これからこの人と電車に乗る人が迷惑な思いをしてもいいのか」などと「説得あるいは注意すべき」寄りの答えを出していたような気がします。


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 この本に出てくる「魚河岸くん」みたいな人って、本当にいるのです。ナチュラルに反社会的な人、とでも言えばいいのか……


 世間の大人たちも、この高校生の勇気を讃えながらも、「世の中には話が通じない人もいるから、そんな危険なことは自分自身のためにしないほうがいい、みんなもそうしてね」というのが多数派のようです。


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 ネットでのこの記事に対してのコメントをみていると、
「そのとき、周りにいた大人たちは何をしていたんだ!どうしてこの高校生を助けなかったんだ!」
「直接注意するんじゃなくて、車掌さんや駅員さんを呼ぶべきだった」
「こういうときに、『関わらないほうがいい』って、みんな自分のことばかり考えるから、こういう奴らが好き放題やるようになる」
 というような意見も多く見かけました。


 このニュースに、僕は以前東名高速で起こった事件のことを思い出さずにはいられませんでした。

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 大人にだって、「注意する」人はいたのです。
 そして、こんな結果になってしまった。
 いまはインターネットによる「相互監視社会」的なところがあって、「こんなことをやったら、ネットで晒される!」と芸人さんがネタにしているのをときどき見かけますが、世の中には「ネットでの世間的な自分の評判」なんて意に介さず、自分の仲間内での面子や自身のプライドを重視して生きている人もいるんですよね。「別に警察に捕まってもいい」「自分は死んでも構わない」というレベルの「無敵の人」と衝突するのは、「無敵じゃない人」にとっては「百害あって一利なし」なのです。
 基本的には、住む世界が違う、というか、日常生活で衝突することは少ないのですが、公共交通機関とか公道というのは「衝突してしまいやすい場所」です。

 こういうときに、どうするのが「正しい」のだろうか?
 「駅員さんを呼ぶ」といっても、駅員さんは容赦なく行使される暴力に対抗するトレーニングを受けているわけではありません。
 仕事だから注意はするでしょうけど(逆にいえば、「無敵の人」に注意するのも駅員の仕事なのか?とも思いますが)、リスクは高いですよね。
 拳銃を所持していて、格闘術の心得もある警察官や自衛官なら制圧できそうですが、彼らだって、車内喫煙を理由に発砲はできないはずです。まどろっこしいような気はするけれど、そうやって日本の『ダーティ・ハリー』化は抑止されているのです。

 僕のなかでは、この件に対して、2つの「正しさ」がせめぎあっているのです。
 ひとつめは「ちゃんと注意すべき。誰かがそうしないと、暴力でやりたい放題になってしまうから」という「道徳的な正しさ」。
 ふたつめは「こういう『無敵の人』に関わるリスクは避けるべき」という「処世術的な正しさ」。

 今回の報道で目立ったのは、高校生の勇気を讃えるよりも、「処世術的な正しさ」を勧める大人たちの姿でした。
 いや、僕だって、いまは、自分の子どもには、「関わるな、やり過ごせ」って言いますよ。
 でも、テレビで著名人たちが、「処世術的な正しさ」を語るのが、本当に良いことなのかどうか、とも思うのです。
 彼らは、自身の影響力も意識せざるをえなくて、この勇気ある高校生に倣って傷つけられる若者が続出することを懸念しているのかもしれませんが……

 いまの「ネット世論」では、「道徳的な正しさ」を厳しく追求するコメント(意見)が支持されやすいように感じます。
 「不倫はいけない」「そんなひどい親とは、さっさと縁を切ってしまえ」
 その一方で、現実では「まあ、好きになったものはどうしようもない(『他人』の場合ですけどね)」、「そうはいっても、親は親だからねえ」という対応をしている人が多いのではないでしょうか。

 僕は長年インターネットに浸かって生きてきた人間なので、つい、「インターネット的な(道徳的な)正しさ」を日常生活で振りかざしてしまいそうになるんですよ。
 人は大概、ネットでは「弁慶」になる(僕もそうです)。
 
 でも、現実では、相手がどんなロクデナシであろうと、殴られれば痛いし、怪我もする。刺されたり撃たれたりすれば死にます。
「暴力」って、強いんですよ、それを持たない人間に対しては、とくに。

 僕は正直、この犯人みたいなヤツはドローンで即時抹殺してしまえ、という衝動に駆られるのですが、そういう社会は「誰がその抹殺の権限」を持つのか、オーバーキルにならないのか、という疑問もあります。

 そもそも、警察や検察がいくら「事件後」に頑張っても、失われた命や身体は元通りにはならない。

 冒頭の事件でも「周りの大人たちがなぜ止めなかったのか?」という問いには、「じゃあ、大人であるあなたは同じ状況だったら『体を張って止める』のですね?」という言葉が返ってくる。

 中国や韓国なんて、やっつけてしまえ、と主張する人は多いけれど、「自分が一兵卒として映画『硫黄島からの手紙』の日本軍の兵士みたいな状況で戦う」ことまで想像している人は、そんなにたくさんはいないはずです。
 でも、戦うというのは、誰かがそれをやる、ということだし、その「誰か」は自分かもしれません。
 僕はこれまで戦争に行った人たちって、「まさか自分が戦場に行くことになるとは……」って感じだったのではなかろうか、と想像してしまいます。

 インターネットで「社会」を語る人は、「自分もまた社会の一員であり、他人に起こったことは、自分にも起こる可能性がある」ことを忘れていることが多いのです。

 実際のところ、この「道徳的な正しさ」と「処世術的な正しさ」の衝突の問題は、「社会」ができてから、ずっと解決できないままなのです。
 現在のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、平家の威を借りる豪族に小栗旬さん演じる主人公の北条時頼が屈辱的な目に遭うシーンがありました。視ていた僕も「ぐぬぬ」となったのですが、あの場で反抗していたら、時頼の、北条家の危機につながっていた。

 インターネットで「イイネ!」がつく数ほど、現実世界では、「道徳的な正しさ」は力を持たない。振りかざすのは危険な刃です。
 それは、意識しておいたほうがいい。
 現実世界での「処世術な正しさ」を信頼しすぎていると、ネットの「道徳的な正しさ」に押しつぶされる世の中でもあるのですが。

 僕自身は、この問題を技術的に解決する方法、というのを考えていて、それは、誰かが「電車内でタバコを吸う」「不倫」というような「非道徳的な行動」を行うたびに、周囲の人がそれを告発し、その内容に応じて「違反点数」が増えていく、というものです。
 それに応じて「クレジットカード使用停止」「公共交通機関の利用制限」「インターネットに接続できなくなる」などの生活上の制限が加えられていくのです。最終的には「矯正施設への収監」。
 そうすると、その場で注意した勇気ある人が危険にさらされずに、「罰」を与えられるのではなかろうか。


 ……と、ここまで書いて思ったのが、これって、いまの中国の「芝麻信用」の強化版みたいな感じなんですね。
 
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 「監視社会」に良いイメージを持つ人は少ないとは思いますが、実際には「信用スコアアップ」に熱中している人もたくさんいます。
 そんなの息苦しいよな、と今の僕は感じるのですが、近い将来、こういうシステムが「より安全で清潔な社会」を維持するために、支持される時代が来そうです。

 DQNを止めるには、もう、監視社会しかないのだろうか?


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