いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「現代のアート」について、少しは知っておきたい人のための7冊の本


「アート」に関して、僕は「好きだ、あるいは好きだと自分では思っているけれど、わかっているという自信はない」のです。
 とくに「現代アート」については、「これが本当に『アート』なのか?」と言いたくなることもある一方で、こういうのをわかったふりしないと、「アートがわからない人間」とみなされるのだろうな、と不安になるのです。
 いや、そんなの「わからないものはわからない」というのが、誠実な態度なのかもしれませんが……

 今回は、僕がこれまで読んできた「現代アート」に関する本のなかで、印象に残ったものを7冊紹介したいと思います。
 ただし、僕自身はアートの専門家ではなく、近場で興味がある展覧会が開催されていれば足を運ぶ程度の人間ですので、「こいつわかってないなあ」というところも多々あるでしょうが、御笑納いただければ幸いです。


(1)芸術闘争論
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芸術闘争論 (幻冬舎文庫)

芸術闘争論 (幻冬舎文庫)


あの村上隆さんによる、「アート論」であり、「アーティストになろうという人たちへの指南書」でもあります。
アーティスト志向ではない僕にとっては、あんまり意味のない本かと思いきや、この『芸術闘争論』で、村上さんは、これ以上ないくらい「現代における『アート』とは何か? どういうふうにして見れば、『アート』を楽しむことができるのか?」という「観客としての作法」を、とてもわかりやすく語ってくれているんですよね。

 抽象表現主義とは一言でいえば、「ピカソを倒せ!」というムーブメントです。ピカソの荒々しくて独創的な作品に打ち勝つにはどうしたらいいのだろうということがいろんな形で研究されました。
 そして、ついに「絵を描かない」ことで、ピカソを撃退しようとしたわけです。なぜか?
 ピカソと対になっているマティスという画家がいます。マティスは晩年絵を描かないという境地に達していました。色紙をちょきちょき切って、みんなが知っているベネッセのマークみたいなものを糊で貼ったりしたわけです。それに加えてフランスから来たマルセル・デュシャンが便器で作った『泉』を発表した。muttとサインして、ある展覧会でこの便器を出して、アートははどうせ下ネタ=エロスではないか、下ネタだったら男子便所の便器でも持ってきてやるよ、と。美術館的な台座にのせて芸術とはこんなものでございというパロディをやってみせたところ、今や現代美術の始祖といえばデュシャンの『泉』ということになっています。これが現代美術のゼロ地点です。
 ピカソがあってマティスがあってデュシャンがあって、この描くことを拒否することが芸術の世界で非常に重要になってきた。前の章で、画商やキュレイターや美術館といったプレイヤーたちの望むもの、それが西欧式ARTのルールであると説明しましたね。それはもう本当にゲームのルールと同じです。

 なぜ日本の人たちが、現代美術が嫌い、現代美術がわからないと言うかというと、わざわざコンテクストを知的に理解しなければならないアートなんてアートではないと思っているからです。アートというのはそういう高尚ぶったお勉強のできる人の遊技ではなくて、誰にでもわかる=“自由なもの”であるべきだと、皆思っているのですね。
「アートは自由に理解すべきだ」
 これはほとんど信仰に近いものがあります。
 では、さきほどぼくが日本人にとって芸術であるといったマンガの場合はどうか。皆さんは「マンガはコンテクストなど理解せずに、自由に見て楽しめるからいい」と思っているかもしれませんが、実は外国人にとってマンガほどハイコンテクストで、ハードルの高い文法を持った芸術はありません。特に現代マンガは先行するコンテクストへの理解なしにはきちんとした理解は不可能です。それよりは現代芸術のほうがよほどわかりやすいと僕は思います。

 村上隆さんがすごいのは、こういう「言葉」を持っているところだと思うんですよ。
「絵を描かないことが芸術の世界で重要になってきた」というのは、ものすごく逆説的な話なのだけれども、ピカソ後、あるいは「写真」というツールが一般化してからの「現代美術が目指したもの」を、これほどクリアカットに言い表した言葉は聞いたことがありません。

 ピカソという「伝説の剣豪」に勝つには、もう、剣を抜いて勝負してもどうしようもないので、「私は剣なんて抜かなくても、闘気だけで敵を斬れる!」ってハッタリをかまし、いかにそれを相手に信じさせるか、という競争になっている。でも、そういう「ハッタリ」で相手が感服するのならば、そのハッタリは立派な「剣術」なのかもしれません。



(2)ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡
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ウォーホルの芸術?20世紀を映した鏡? (光文社新書)

ウォーホルの芸術?20世紀を映した鏡? (光文社新書)


 著者は、ウォーホルの「キャンベル・スープ缶」について、このように書いています。

 どこでも入手でき、いつ誰が食べても同じ味の食物というのは、20世紀になったはじめて登場したものだった。現在では、缶詰や加工食品をたたえる人は少ないが、20世紀半ばには、それらはもっと輝いていた。大量消費社会では人種も貴賤も区別なく、人々は同じ大量生産の食品をスーパーで買い、同じように調理して食べている。ウォーホルの絵はこうした食品の画一性をこの上なく明瞭に表現しているが、決して批判的な視点ではない。
 なぜキャンベル・スープ缶を描いたのかと質問されたウォーホルは、「毎日食べてたからさ」と答えたが、日常繰り返す生活が単調でつまらないと感じるのではなく、同じ生活がもたらす安定感がウォーホルは好きだったのだ。スーパーで買ってくる保存食品はいつでも食べられるし、毎日同じ味がするから安心できるのである。実際、ウォーホルの母はこの缶詰を買い置きしており、ウォーホルは幼少のころからこれになじんでいた。いわば”おふくろの味”であったのだ。売れるようになってからも、彼の昼食はこのスープとパンだけのことが多かったという証言もある。
 また、彼は後に著書『ぼくの哲学(The Philosophy of Andy Warhol)』の中で、「この国の素晴らしいところは、大金持ちでも極貧民でも同じものを消費するってこと。テレビを見ればコカ・コーラが映るけど、大統領もコークを飲む、で、考えたらキミもコークを飲めるんだ。コークはコークだし、どんなにお金を出したって街角の浮浪者が飲んでるのよりおいしいコークなんて買えない。コークはすべて同じだし、すべてのコークはおいしい」と書き、さらに、似たような例として、アメリカに来たイギリス女王の食べたホットドックの例もあげている。平等への理想は、社会主義的にも聞こえるが、アメリカの資本主義社会のもたらした食品の大量生産と安価な供給にもっともよく表れているのである。
 そして、そのすばらしい食品を芸術家の天才が独特のタッチで描いてものものしい芸術にするのではなく、ロゴマークのようなすっきりとしたシンプルな姿で提示する。誰が描いても似たり寄ったりのように思える、こうしたシンプルでクリーンな様式も、コークや缶詰の味と同じく、大量消費社会にふさわしいものであった。
 その意味で、キャンベル・スープ缶は、ウォーホル芸術の代名詞となっただけでなく、20世紀後半の資本主義社会を反映した新たな芸術を象徴するものとなったのである。


 僕はウォーホルの「キャンベル・スープ缶」に対して、「画一的な商品をみんなが食べている」という、没個性な消費の時代への批判だと、思いこんでいたのです。
 しかしながら、ウォーホルが生きてきた時代、そして、その「食品の大量生産と安定供給」が行わるようになったのは、人類史では、ごく最近のことであるということを考えると、ウォーホルは、「みんなが同じものを食べている」ということを、ネガティブにはとらえていなかったのか……
 もちろん、アートというのは、観る人それぞれの解釈があって良いのでしょうけど、こういうことを知っていて観ると、また違ったイメージがわいてきます。
 「現代アート」とされる作品であっても、もう、解釈に「揺れ」みたいなものや「いまの時代に生きている人との感覚の違い」が生じてきているのです。



(3)カリコリせんとや生まれけむ
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カリコリせんとや生まれけむ

カリコリせんとや生まれけむ


 会田誠さんといえば、2012年から13年にかけて森美術館で行われた「会田誠展:天才でごめんなさい」での騒動が僕の記憶に残っています。
 ちなみに、その「騒動」というのは、フェミニスト団体が、会田さんの作品を「人権擁護と児童ポルノ防止の観点から」即時撤去するよう求めた、というものでした。
 このエッセイ集のなかにも、会田さんの作品の写真がモノクロで収録されており、表紙は代表作のひとつ「滝の絵」です。
 まあ、なんというか、僕は現代アートに興味はあるのですが、こういう作品に「説得」されてしまっても良いのだろうか……などと考えてしまうところもあるんですよね。
 面白い、というのと、面白がっていいのか、というのと。

 このエッセイ集には、現代美術に対する会田さんの考えが言葉として散りばめられています。

 20世紀が始まって以来、形式をことごとく破壊していって、ついには一作家一手法のような超個人主義に行き着いた現代美術では、教育は原理的に不可能なものとなっている。「オレはオレのことしか分からない。キミらの作りたいものなんか分からない。自分の考えをキミらに押し付ける気もない。だから教えることなんか何もない!」というのが偽らざる気持ちだった。
 そういう僕自身が、教わるのが大嫌いな学生だった。教わるのが好きな素直な学生は、現代美術家に向いてないと内心思っている。我に師なし、はたぶん事実だが、それはとりたてて偉そうに語るべきことではなく、現代美術の平凡な一光景に過ぎない。世代間のバトンリレーによる文化的成熟を拒絶したこの業界の未来には、確かに暗雲が垂れこめている。しかしそれを承知で行くところまで行くことにしか、逆説的な可能性はないと僕は考えている。

 現代美術の可能性と袋小路みたいなものを、これだけクリアに述べている文章というのは、なかなか無いと思います。
 


(4)現代アート経済学

現代アート経済学 (光文社新書)

現代アート経済学 (光文社新書)

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 アート、とくに現代アートというのは「金持ちのパトロンの道楽」みたいなものなんじゃないの?と僕は思っていたのです。
 お金が余っている人が、採算度外視で支援するものなんだろう、と。

 ところが、この新書を読んでみると、「アートへの支援」というのは、もはや、「個人の道楽」レベルのものではなくなっているのです。

 国際社会の中で文化的価値を活用して広く世界に働きかけることは、自らに有利な国際環境を形成し、外交政策や対外交渉を有利に進めるだけでなく、企業の対外経済活動にも大きな影響を与えます。特に、「パブリック・ディプロマシー」といわれる、直接的な世論形成においてその傾向は顕著です。歴史認識や領土を巡る情勢で激しく火花を散らしながらも、日本における根強い韓流ブームや、中国における日本アニメーションの高い人気はその好例といえるでしょう。
 また、地域における活発な文化・芸術活動や美術館を始めとする文化施設の充実は、世界中から多くの観光客を集め、時に莫大な経済効果を生み出します。加えて、新しい住民の流入や、企業・産業の誘致にもその効力を発揮します。
 前者は、およそ半年間の会期中に、世界中から44万人以上の入場者を集めるヴェネツィアビエンナーレや、年間1000万人近くの入館者が訪れるパリのルーブル美術館がその代表です。後者は、グッデンハイム・ビルバオ(スペイン・バスク自治州)による都市の再生が好例といえるでしょう。同館はオープンから5年で、開館投資額の約10倍にあたる7億7500万ユーロ(約945億円)以上の直接的経済効果を地域にもたらしています。
 さらには、こうした国家や地方自治体予算による文化事業以外にも、芸術は経済と密接に関わっています。
 一節によれば、米国における文化、芸術、教育関連の寄付金総計は年間20兆円を超え、英国ですらその額は1.6兆円に達するといわれています。
 また、世界の美術品オークション市場を見れば、トップの米国が65億ユーロ(約7540億円)、次いで中国が59億ユーロ(約6800億円)と、それぞれ約30%のシェアを占め、マーケットを二分しています。もっとも、これらは2010年の数値なので、現在では中国の落札額、市場占有率は大幅に増加しているはずです。


 税金でアートフェスティバルを支援する、というのは、いまの世界では、国や自治体にとって、「公共サービス」だけではなく、かなり規模が大きい「経済活動」でもあるのです。
 好むと好まざるとにかかわらず。



(5)アウトサイダー・アート入門
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 「アウトサイダー・アート」って?
 僕は自分なりに「アート」というものに興味を持っているつもりなのです。
 でも、「アウトサイダー・アート」って、「要するに、犯罪者とかヘンリー・ダーガーみたいに人との関わりを極力避けているような人の芸術」なのだと思っていました。
 この新書のなかで、著者は「アウトサイダー・アート」の定義について、かなり詳しく書いています。

 それにしても、「じゃあいったいアウトサイダー・アートってなに?」と聞かれると、これがけっこうむずかしい。ざっくばらんにいってしまえば、「公認」の美術教育を受けていない「素人」による美術、せんじつめれば独学による美術、ということになるだろう。しかし、こう書いておいてすぐさま、では公認された美術とはなんなのか、独学がなぜアウトサイダーなのか、という疑問が頭をもたげてくる。

(中略)

 美術におけるアウトサイダーとは、転じて公的に認められた(多くの場合は国による)正規の美術教育からは無用でしかない、道を外れた者(多くの場合は我流)による、勝手で野放しな創作ということになる。公認された美術は、その担い手にも、それにお墨付きを与える権威にも「正当」「真っ当」の足場を与えるから、それに準じない者の行く「わが道」は、おのずと「外道」ということになる。このように、美術における自己流には、おのずとアウトサイダー=外道の意味が含み込まれているのである。

(中略)

 今、世間で一般に浸透しつつあるアウトサイダー・アートというと、精神病者たちが超人的な持久力で延々と厭きず作られ続ける「トンデモ」美術というニュアンスで捉えられるということも少なくない。しかしこれは判断が逆転してしまっている。先立つのはあくまで我流のほうであって、障害を持つことや苦難を経ることが、誰もが驚きを隠せないほど常軌を逸した美術を成し遂げるきっかけとなったのは、本来であれば事後的な問題にすぎないのである。そんなことをいえば、美術の担い手はなにがしかの障害や心に傷ある者とすべしという判断がおおやけに下されれば、今ある健常者の表現のほうがアウトサイダー・アートになる可能性だってなくはない。これこそ本末転倒だろう。このように、身体の障害や精神の病といった属性は、あくまで相対的なものであって、アウトサイダー・アートが成り立つための絶対条件にはなりえないのである。

 「アウトサイダー・アート」とは、社会の「アウトサイダー」によるアート、ではなくて、「美術の権威から外れている」アートなのだ、ということのようなのです。
 ここで、著者は「身体や精神の障害は、あくまで相対的なもの」だと書いていて、それはたしかに正しいのだと思います。
 その一方で、ひとりの鑑賞者としては、「アウトサイダー・アート」の代表格である『ヴィヴィアンの少女たちの物語』に、「独居老人によって、誰に見せるわけでもなく長年描かれつづけ、彼が引っ越したあとアパートに遺されたゴミの山から発見された」というドラマがなかったら、これほどまでに広く知られることになっただろうか?とも思うのです。
 「アウトサイダー」であることもまた、その作品を見る人の価値観をゆさぶる。
 ヘンリー・ダーガーは、自らの「作品」を発見し、世に広めたネイサン・ラーナーが彼を訪ね、作品について尋ねたとき、「処分してくれ!」と一言だけ返した、とされています。



(6)戦争画とニッポン
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戦争画とニッポン

戦争画とニッポン


 会田さんは、「戦争画 RETURNS」というシリーズをはじめるにあたって、本当の戦争画も見ておくべきだ、と考え、東京都現代美術館の図書室で、太平洋戦争中の「聖戦美術展」の図録を見るなどして、調べていったそうです。

椹木野衣ご覧になってみて、最初にどんな印象を持たれましたか?


会田誠正直な感動を言うと、ちょっとこう、「がっかり」というところがありましたね。ネタ探しに行っていた当時の感覚としては、戦争画を見れば、何かすごい、エグい絵がいっぱいあって、それをちょっと現代風に味つけしたら、コロコロやばい作品が作れるんじゃないかというような下心もあったんです。要するに、ちょっと大げさに言えば、今の漫画で言えば、駕龍真太郎さん的な作品にでも、すぐに置きかえられるような、鬼畜米英まっしぐらで、かなり偏ってイデオロギーに染まった、ひどい絵があるかと思っていた。ところが、蓋を開けてみたら何て言うんですかね、どれもやさしい。だから、「本当の戦争画はやさしい絵が多いな」というのが第一印象でした。


 紹介されている絵を見て、「戦争画って、僕がイメージしていたような『日本軍の活躍をカッコ良く描いたもの』ばかりじゃない、というか、そういう絵はほとんど無いのだな」と考え込まずにはいられませんでした。
 そこに、明らかな「反戦」の意図はなかったのかもしれないけれど、「戦場の無常観」みたいなものが伝わってくる絵が数多くあるんですよね、戦時中に描かれたものでも。
 これで「戦争協力をした」と見なされるのだろうか、と疑問になったくらいです。
 戦後、「軍部に協力した」ということで、追われるように日本を去ることになった藤田嗣治さんが1943年に描いたニューギニア戦線の絵など、ただ、死屍累々、という感じで、「これを見て、戦場に行きたい、という人なんて、いるのだろうか?」と思ってしまいます。
 ただし、ここまで日本兵の死体を描けたのは、藤田さんが当時の画壇の権力者だったからで、他の人は、日本兵が死んでいるところは描けなかった(描きづらかった)というのも紹介されてはいるのですけど。



(7)最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―

最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―

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 音楽系では、学生たちが在学中から、さまざまなコンクールに出場したり、オーケストラに参加したりというような「競争」が激しい(この本を読むと、そのあまりにも「音楽漬け」の生活に圧倒されます)一方で、美術系はかなり自由な雰囲気のようです。
 ただし、それは美術系が「そう簡単に就職できるわけではないし、普通の会社に就職しようという気もない」人たちの集まりだから、というのもありそうです。
 音楽系には、ある程度「成功のロールモデル」があるけれど、美術系には、それがないんですよね。
 
 それにしても、藝大には、いろんな人がいるみたいです。

「油画専攻は、一学年55人ですよね。どんな雰囲気なんでしょう?」
「そうですね。いろんな人がいますけど、みんないい意味で干渉しすぎないんですよ。マイペースで。だから共存できてるんだと思います。大人の幼稚園、というか」
 立花さんの言葉に、自分をよく観察している人特有の謙虚さがにじむ。
「大人の幼稚園?」
「みんな好き勝手してるんですけど、ちゃんとルールは守ってるんです」
 改めて考えると凄い大学だ。
「特に油画は自由ですね。藝大で一番自由だって、みんなに言われます」
 絵画科油画専攻の大きな特徴の一つとして、油絵を描かなくてもいいという点がある。嘘みたいだが本当だ。油画専攻の展示などを見に行くと、油絵以外の展示物があまりに多くて驚いてしまう。
「基本、放任なんです。もちろん油絵も描きますけれど、彫刻をやってもいいし、映像をやってもいいし……何をやってもOKなんです」
 油画専攻の守備範囲は広い。授業では油絵の技法にとどまらず、壁画や版画、果ては現代アートや写真、彫刻にまで触れることができる。
 そうして一、二年で様々な表現方法に触れ、三年からは専門課程となり、自由に自分だけの世界を作り上げていくのだ。


 えっ、油画学科なのに、油絵を描かなくてもいいの?
 本当に「自由」な学校だな、と呆れるやら、感心するやら。
 でも、学校の作文で「好きなことを書いていい」と言われるとなかなか書き出すことができなかった僕は、「自分にとってのアートの定義」から見つけていかなければならない藝大の学生たちは、自由すぎて大変だろうなあ、とも想像してしまうのです。
 技術的に「絵や楽器が上手い」だけでは、抜きん出ることはできない世界で、他人と違うことをやろうとしても、大概のことは、もう誰かがやってしまっている。
 そして、「いかにも他人と違うことをやろうとしている人が、やりそうなこと」の泥沼にはまってしまう。




 僕にとっての「アート」の範囲というのは、考えれば考えるほど「なんでもあり」に思えてくるのです。

空をゆく巨人 (集英社学芸単行本)

空をゆく巨人 (集英社学芸単行本)

 最近読んだこの本では、地域の人々を巻き込んでのパフォーマンスが「アート」として関わった人たちの心を動かしていく様子が描かれていました。
 あらためて感じるのは、もはや「アートのためのアート」というのは存在することが難しい、ということなんですよ。
 「これはアートだから」というのが免罪符にならない時代というか、「いろんなものを巻き込んで、人の心をざわつかせてこそアート」の時代を生きているのです。


fujipon.hatenablog.com
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芸術起業論 (幻冬舎文庫)

芸術起業論 (幻冬舎文庫)

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