いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「生んでくれてありがとう」を、右から左へ受け流す。


kasasora.hatenablog.com


「生んでくれてありがとう」
 先日、「2分の1成人式」に出席してきたのだが、僕も正直、違和感というか、「本当にそんなことをこの年齢の子どもが思っているわけないよな」と感じていた。
 でも、その一方で、時間と手間をかけて「感謝の会」の準備をしてきた息子に「こんなのは間違っている」と言うのも変な話だし、感動しているほかのお父さん、お母さんに水を差すのも無粋だな、とも思ったのだ。

 僕は「今の日本でオリンピックなんてやる必要ないだろ」と言いながら、実際に競技がはじまると熱心に応援するだろうし、『世界の中心で、愛をさけぶ』って、ベタなアナクロ小説だよなあ、と貶めていたのに、長澤まさみさん演じるヒロインが苦しんでいるシーンには涙してしまう。オッサンは涙腺がゆるくて困るのだ。しまいには、ドラえもん映画でも、仲間たちが助けに来るシーンで泣きそうになっているし。


 あらためて考えてみると、この「生んでくれてありがとう」が、なんでこんなに引っかかるのかというと、僕自身は子どもの頃にそんなことを思ったことがなく、なぜ自分をもっとかっこよく、スポーツ万能に生んでくれなかったのか、そもそも、人生というのはどうしてこんなにめんどくさくてややこしいのか、自分には不向きなのか、生んでくれって言った覚えなんてねーよ!と、校舎の窓ガラスを割る尾崎豊を「そんなの何の意味もないだろ……」とバカにしながら考えていたものだ。僕は面白いテレビゲームか本に触れているときだけが幸せな子どもだったのだが、親に養われている、という立場はわきまえていたので、「生んでくれてありがとう」なんて言うのはイヤだが、これもスポンサーへのサービスだよな、と、ある程度割り切ってやっていたし、「今度のテスト、悪かった~」と嘆いているふりをして、100点の答案を母親に渡していた。いつも飲んで帰ってくる父親のことは嫌いだったし、向上心がなく、俗っぽい人間だと心の中で嘲っていた。


今なら言える、あの頃の自分は、まさに子どもだった、と。
自分の子どもとはいえ、生活に困らないくらいのお金を継続して稼ぎ続け、子どもの用事があるときには自分がやりたいことを後回しにして子どもを優先するって、自分が親の立場になってみると、あたりまえだとされているけれど、ラクじゃないよな、と思う。
学校の半年分の授業料を眺めながら、これで『はてな株』を100株くらい買って、桜玉吉さんの「アスキー株」みたいにネタにしてみたい、などと想像してみる。
外食するたびに車酔いして「食べられない」とか言われたら、「なんなんだコイツ」って怒鳴りたかったのではなかろうか。
ただ、そういうときの自分の親のことを思い出すと、因果応報というか、しょうがないな、という気分にもなるのだ。単に僕の番が来ただけだ。

三浦しをんさんの本の解説で、ある人が(ごめん誰だか忘れた)、「良い作家というのは、例外なく、自分が子どもの頃の記憶を持ち続けている」と書いていたのを覚えている。


anond.hatelabo.jp
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「2分の1成人式」も「生んでくれてありがとう」も、僕の記憶が確かならば、ほとんどの子どもたちは「大人に言わされている」のだ。親がそれを聞いて、なんだかいたたまれない気分になるのは、「さまざまな角度から物事をみていたら、自分を見失ってしまう」から、あるいは「自分が子どもの頃、思ってもいなかった『生んでくれてありがとう』なんて言葉を、育ててもらっている側が遂行すべきミッションとしてやむなく言わされたときの記憶がフラッシュバックするから」なのだと思う。
だからこそ、こちら側も、そういう「本心」には知らんぷりをして、「感謝してくれてありがとう」と子どもへの感謝を演じている。
 子どもも、腑に落ちないものを抱えながら演じているのだから、騙されてあげても、バチは当たるまい。「お父さん、いつもお仕事がんばってくれてありがとう!」なんて言われると、きつい仕事からリタイアして、マイペースで働ける職場に移ってしまった、能力もやる気もないダメ医者の僕は、心が痛む。こんなはずじゃなかったし、こんなふうになるんじゃないぞ、とも思う。だが、そんなこと正直に言われたって、子どもだって困るだろう。僕にだって、そのくらいのことはわかる。

ああ、でも思い返してみれば、僕も子どもの頃は、薬のにおいがする白衣を着て帰ってきたときの父親は、なんだかカッコいい、という気がしていたな。


子どもが親を「嫌い」って言うのは、たぶんそういう時期なんだろうな、と思うことにしている。
僕だって自分の父親は長い間嫌いだったし。
親としては、ずっと子どもには子どもでいてほしいところがあるし、成長すると寂しいような気がするけれど、いま10歳と5歳の息子たちが、10年後、20年後も、「パパ、プラレールで遊ぼうよ!」と言っていることを想像するとキツい。親子というのは、とくに父親というのは、いつかは子どもに見放されていくものであって、それが早いか遅いかの違いでしかない。そう思うことにしている。
僕は愛情の示し方がいまだによくわからないので、とりあえず、なるべく機嫌よく過ごし、食べ物と着るものと住むところと本だけには不自由しないように、と心がけている。
ろくでもない親で、子どもには、本当に申し訳ない。


fujipon.hatenadiary.com
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