いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『おんな城主 直虎』最終回「石を継ぐ者」を観終えたので、『直虎』を完走しての感想を書きます。


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 去年の『真田丸』に続いて、完走しました、『おんな城主 直虎』。
 うーむ、なんなんだこのヌルくてネタに走った大河ドラマは……直虎は本当は男だった!とかいう説まで出てきて、なんかもうカオスだ……
 とか言いつつ、結局最後まで観てしまいました。
 小野政次高橋一生)さんの最期の回があまりにも「神回」すぎて、あとはもう惰性で観ていたようなところもあったのですが、今日の最終回は、なんだか人を食ったような、というか、あまりにもアッサリとした直虎の死に、ちょっとあっけにとられてしまいました。
 40数年生きてみると、病床の直虎のこんな言葉が、僕にも沁みるんですよね。

「見送るばかりの、身の上ではあったではないですか。いつも、いつも、私ばかりが生き残り……この世に未練などないと思っておったのです。なれど、いまとなって、ひどく生きたいと思っておりまする」


 ある程度以上生きていると、どうしても「見送ること」が多くなります。
 生きているということは、「見送りつづけること」でもある。
 いつ死んでもいい、なんて言うけれど、どんな高齢の人でも、本当に「未練がない」人は、僕の経験上、ほとんどいなかった(認知症などで、感情がわからない、という例はともかく)。
 見守るつらさを感じられるのも、生きているから、ではあるのです。


 ちょっと前までの歴史的な人物が主人公の大河ドラマ(それこそ、『徳川家康』とか)では、最終話は死の床についた主人公の脳裡を延々とこれまでの記憶が走馬灯のように流れ、本当は宿敵も殺したくなかったし、平和を祈っていた……なんてやたらと美化されつつ命を終えていたんですよね。


 直虎の死は、身近な人たちにとって大きな喪失ではあったけれど、社会に大きなインパクトを及ぼすようなものではなかったし、直政(万千代)も、「戦続きで、供養にも行けていない」と述懐していました。
 物語のクライマックスというよりは、「通過点」のように最終回の半分くらいの時間で、直虎は、逝ってしまったのです。
 だからこそ、ものすごく「現実的な人間の死」のように感じました。
『直虎』というのは、近年の大河ドラマのなかでも、フィクション成分が高い作品ではあるのだけれど、人の力の限界とか、命の軽さや重さとか、感情というもののやるせなさとか、そういうことが、けっこう丁寧に描かれていたように思います。
 南渓和尚が、直虎の葬儀のときに、お経を読まないんですよ。
 「お前が私の経を読んでくれるはずだったのに」って。
 なんて悟れてない和尚なんだ!……でも、それが人の「どうしようもない情」みたいなものなんだよね。


 「子どもがいない人生」とか「なんらかの理由で、行き場がなくなってしまった人たちが、傷を癒して生き直せるような場所をつくりたい」とか、描かれているのは、きわめて現代的な問題でもあり、タイトルで毎回おちゃらけているようで、観るとハマってしまう作品でした。
 北条との和睦の使者に名乗りを上げた直虎が「潰れた家の子どもでも、徳川様につけば、こんなに取り立ててもらえる」と、自分の立場を逆手にとって訴えるところは、ブラック企業の経営者や横文字を並べて煙に巻いてリストラするのが仕事だと思っているコンサルタントの皆様にも、ぜひ観ていただきたかった。
 人って、マイナスにしか思えないことも、発想を転換すれば、セールスポイントにもできるのだな。


 井伊直政は、政戦両面できわめて有能な人物だった一方で、癇癪もちで自分にも他人にも厳しく、パワハラ上司みたいなところもあった、なんていう歴史的な事実を鑑みると、結局、直虎から直政に受け継がれたものというのは、何だったのだろうな、とも思うんですけどね。
 「井伊の家名」よりも大切なものがある、はずだけれど、「家名」こそが、井伊の力を引き出してきたところもある。
 まあ、歴史っていうのは、いろいろと矛盾していますよね。
おんな城主 直虎』というのは、ツッコミどころも多かったのだけれど、ひとりひとりの人間が、歴史という濁流に飲み込まれ、翻弄される姿を描いた、まさに「大河ドラマ」だったような気がします。
 

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おんな城主 直虎 一

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