いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

あるお笑い音痴が観た「M-1グランプリ2017」

www.m-1gp.com


 今年は何年ぶりかに昼間に放送された準決勝から夜の決勝までちゃんと観たので、思ったことをとりとめもなく書いてみる。
 準決勝を観ていて、なんだかあんまり盛り上がっていないな、笑いが少ないな、と感じたのだけれど、この寒い時期の野外で漫才をやるというのは、けっこう難しいのだろうな。決勝の会場の温かさ(熱さ、というべきか)をみると、なおさら。
 準決勝って、なんだこれは、みたいなのが出てくることがあって、決勝とは違う面白さがあるのだが、今年に関しては、後から出てきた人のほうが(予選順位が高かったコンビのほうが)順当にデキが良かったように思う。
 南海キャンディーズが二人でやっているネタを久々に観て、山里さんの存在感とツッコミの上手さに感服した。
 僕がM-1ではじめて南海キャンディーズを観たときには、面白いけど、しずちゃんのキャラクター頼み、という感じだったのだが、今回はむしろ、「しずちゃん、がんばれ!」と言いたくなってしまった。
 これはやっぱり、お笑いの世界の最前線にい続けている山里さんと、ボクシングや役者など、他の仕事が多かったしずちゃんとが漫才に関して積み上げてきた経験値の差なんだろう。
 あと、ネタの優劣はさておき、南海キャンディーズやハライチなど、すでに売れている人たちのネタは、ものすごく「聴きやすい」と思った。
 漫才というのはネタの面白さはもちろんなのだけれど、声の大きさや声質、滑舌や息継ぎのタイミングなど、「人前で話すことの基礎」みたいなものがけっこう大事なのだな。
 彼らがもともとそういうことを意識していたのか、それとも、売れてステージをこなしていくうちに身につけたものなのかはわからないけど。
 現役引退後、野球解説者として成功した人が、マイクの前に立ってみて、これではダメだと一念発起して、「話し方教室」に通ったり、専門家に指導を受けた、というのを聞いたことがある。
 あらためて考えてみると、池上彰さんも、もともとはNHKの記者だったのに、すごく聞きやすい話し方をするよなあ。


 決勝にはスーパーマラドーナが進んだ。
 僕は南海キャンディーズスーパーマラドーナかな、と思っていたので、順当ではあったのだが、決勝で突き抜けるものを感じるコンビがいなかったのも事実だ。
 決勝戦春風亭小朝さんが、「M-1では、勝てるネタじゃなくて、勝ち切るネタが必要」と言っていた。
 僕は今回のM-1には「勝ち切るネタ」がなく、ハイレベルな「勝てるネタ」どうしの競争になっていたように思う。


 で、決勝なのだが、正直、いちばん印象に残ったのは、なかなかくじが出てこないで悪戦苦闘していた今田耕司さんが「イチャイチャしているみたいになってますけど」と言っていた場面だった。
 手際の悪さを笑いに変えてしまう今田さんすごいな、そして、僕も上戸彩さんとあんなふうにイチャイチャしてみたい。不思議だよね、ベタっとしているよりも、あのくじが出てこない光景のほうが、かえってイチャイチャしているように見える。


 全体的なレベルは高かったし、面白かった。
 僕のなかで、M-1の2大レジェンドである、チュートリアルの『ちりんちりん』、笑い飯の『鳥人』クラスは無かったけれど。
 その一方で、日頃お笑い番組をほとんど観ない僕は、「なんだこれは」みたいな「新鮮な」ものを、こういうコンテストに期待してしまうところがある。
 今回は最後に出てきたジャルジャルが、けっこう攻めてきていたのだが、いかにもジャルジャルがやりそうなネタ、だとも言える。
 個人的にはもうちょっと評価されても良いのではないか、と感じたのだが、審査員の講評のなかで、「もうちょっとこう、大きな展開があれば……」というのを聞いて、難しいものだな、と。
 あくまでも僕個人の考えなのだが、あのネタは「あんな感じで大きくならずに終わってしまう」ところまで含めての、「新しさへの挑戦」だと思うのだ。
 そこで、大御所たちの「どんどん盛り上がっていくべきだ」という価値観と衝突してしまった場合、どうするべきなのか。
 コンテストというのは、「審査する側の価値観に、いかに合わせていくか」の勝負でもある。


 どんなネタでも、やっぱりいちばん面白く感じたり、印象に残ったりするのは初見のときだ。
 今回のM-1で、僕は『にゃんこスター』みたいなのが出てこないかな、と思いながら観ていた気がする。
 キングオブコントであれを観たときには「なんか新しい」「この大舞台で、こんな学園祭みたいなのをやるなんて!」と驚いた。
 好きか嫌いかで言うと、僕はああいうのが大好きだ。アンゴラ村長可愛いし。
 だが、バナナマンの二人が、にゃんこスターについてラジオで語っているのを聴くと、またいろいろと思うところもあったのだ。
 バナナマンによると「ああいうネタ、あるいは、もっと尖ったネタを小規模のお笑いライブでやっている売れない芸人はたくさんいる」のだそうだ。
 「でも、あれを『キングオブコント』という大舞台のコンテストで、観たことがない人たちの前でやる、というのは、タイミングとして絶妙だった」とも。
 もし『エンタの神様』とか『レッドカーペット』で、多くの人が、すでに同じネタを一度観たことがあれば、これほど盛り上がることはなかったはずだ。
 審査員だって、初見の芸人さんのほうが、新鮮で面白く感じることが多いだろう。
 その一方で、昨日の得点をみていると、フィギュアスケートのように、ある程度「基礎点」みたいなものが芸人ごとにあるのかな、という気もするのだ。
 ナイツとかオードリーとかのように(優勝したけど、「笑い飯」もそうかもしれない)、コンテストでは、「こういうのを初めて見た」と思わせるのは有利で、その次の年以降は、技術的には向上しているのに「初見のインパクトに比べると……」という評価をされてしまいがちだ。これは、芥川賞の選考をみていても、そう思う。
 「きっかけ」のようで、実はそのファーストインプレッションが勝負なのだ。


 最終審査、とろサーモンの優勝に関しては、賛否両論のようだけれど、毎年この最終審査で予想を外しまくっている僕は、今年、「これは和牛かミキのどちらかだな」と思っていた。これまでの実績込みで、今年は和牛かな、と。
 どうしても最近見たものほど記憶に残りやすいこともあったのかもしれないが、僕は漫才の身体性に「すごい!」と感動してしまうところがあって、コンビの動きがぴったり合っていて、「練習してるなあ!」みたいな感じがすると、高評価になる傾向があるみたいだ。
 ミキはまさに「王道ど真ん中ストレートの漫才の完成形に近いもの」だったので、コンテストとしては、まさに「勝ちきれない」ということだったのかもしれない。
 あらためて考えてみると、とろサーモンのネタは宗教にハマっている人たちを笑っているように感じたし、和牛のネタは「空気が読めない嫌な客」をネタにしている。しかもオチは「嫌な客が『じゃらん』に勤めている、と知って、仲居さんがびっくりする」というものだった。
 価値観の転換が「笑い」につながる、ということなのだろうけど、「変な人、困った人を笑う」ということに対して、僕はいつも少し引っかかってしまう。
 笑われているのは、自分ではないか、と感じてしまうのだ。
 別にそれはM-1だけの話じゃなくて、志村けんの「変なおじさん」でも、そう思っていた。
 笑いは綺麗ごとではないし、ポリティカル・コレクトネスとは相性が悪いということも頭ではわかっているつもりなのだが。
 まあ、めんどくさい人間なんですよ。
 和牛のあのオチなんて、結局、相手が権力者とか影響力のある人だったら、下手に出ちゃうのかよ、普通の嫌な客とは違う、特別扱いなのか?とか思ってしまう。
 実際は、お笑いをやっている人も、それで笑っている人も、けっこう「生きづらい人たち」だったりするんだけどさ。
 むしろ、「わかったような顔をして、現実ではそういう人たちや、そういう人生をスルーしている人たち」よりも、「笑ってしまったほうが供養になる」のかもしれないけどさ。
 
 
fujipon.hatenadiary.com

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