いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『闇サイト殺人事件』の被害者の「生きざま」を描いたノンフィクション『いつかの夏』と、犯罪被害者の実名報道について


mubou.seesaa.net
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 僕は、被害者の実名報道は必要ないと思うし、被害者の写真や卒業アルバムをわざわざ探してきて、悲しげなBGMとともに「紹介」するワイドショーを嫌悪している。
 僕とその家族が、ある事件の被害者になったとき、某新聞社の記者を名乗る男が家にやってきた。
 憔悴しきっていたこちら側としては、とにかく、そっとしておいてほしかったので、そう言ったら、「取材に答えてくれなかったら、何を書かれても知りませんよ!」と捨て台詞を残して帰っていったのは、今でも忘れられない。もう20年くらい前の話だ。
 もちろん、みんながそんな人ばかりだとは思わない、思いたくないけれど。
 加害者のことはさておき、被害者に対しては、少なくとも家族がそっとしておいてほしい、と考えている場合には、実名報道も、人となりや写真などのプライバシーを明かすことはやめるべきだ。
 「公人」の場合はそうもいかないのだろうけど、大きな時間の場合は、被害者も「公人とみなされてしまう」のか。

 
 ただ、この件に関しては、ある本を読んでから、ずっと引っかかっている。
 それは、大崎善生さんが書いた『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』というノンフィクションだ。


内容(「BOOK」データベースより)
2007年8月24日、深夜。名古屋の高級住宅街の一角に、一台の車が停まった。車内にいた3人の男は、帰宅中の磯谷利恵に道を聞く素振りで近づき、拉致、監禁、そして殺害。非道を働いた男たちは三日前、携帯電話の闇サイト「闇の職業安定所」を介して顔を合わせたばかりだった。車内で脅され、体を震わせながらも悪に対して毅然とした態度を示した利恵。彼女は命を賭して何を守ろうとし、何を遺したのか。「2960」の意味とは。利恵の生涯に寄り添いながら事件に迫る、慟哭のノンフィクション。


闇サイト殺人事件』の概略については、こちらを御参照ください。
matome.naver.jp


 この『いつかの夏』という本、書店で紹介されていたのをみて、手に取ったのだ。
 どんな人間が、なぜ、あんなひどい事件を起こしたのか?

 読み始めて、僕は「何これ?」と思った。
 著者の大崎善生さんは、この本の大部分を使って、加害者の3人ではなく、被害者の磯谷理恵さんの「あの事件で、突然途切れてしまうまでの人生」を丹念に追っているのだ。
 読みながら、僕は正直、「なんで被害者側の話ばっかりなんだ?僕は、なぜこんな事件が起こったのか、加害者側の事情を知りたかったのに」と、少し苛立っていた。
 犯罪仲間を募集する「闇の職業安定所」というネット掲示板を通じて知り合った、3人の男。
 彼らが磯谷さんを狙ったのは「ひとりで歩いている、地味でお金を盛っていそうな女性」を物色していたら、そこに現れたのが磯谷さんだった、ただ、それだけの理由だった。
 結婚を意識した恋人もいて、なんとか生き延びようと、犯人たちの説得を試みる磯谷さんを、犯人たちは40回以上もハンマーで殴って殺害し、山中に遺棄した。
 なぜ、こんなことをする人間がいるのか?
 なぜ、彼女が被害者になってしまったのか?


 ……はっきりとした理由なんてないのだ、理由はなくても、「そういう人」は存在するし、不運な巡り合わせで、犠牲者は生まれる。


 「犯人だって、加害者だって人間だ。社会にだって責任がある」
 僕はもう40年以上も生きているから、そういうのは、自分が安全地帯にいると信じたい善良な人々の「逃避意識」みたいなものではないか、とも思う。
 いつ、「死刑になりたかったから、人を殺そうと思った」という通り魔に襲われるかわからない、なんて心配していたら、外出もできないし。


fujipon.hatenablog.com


 被害者の個人情報に意味があるのか?
 赤の他人にとっては、そんなの無意味だよ。
 周囲の、直接関係ない人の好奇の目にさらされて、「かわいそうにねえ」なんて同情されても、善意に対して返礼するというのは、けっこう消耗するものだ。無下にはできないから。


 この『いつかの夏』を読んでいると、「生きている人の命や日常が突然奪われる」ということの理不尽さについて考えずにはいられなくなる。
 天災や事故ではなく、身勝手な犯罪者の犠牲になってしまった場合は、なおさらだ。
 人は、人の死になんらかの「意味」みたいなものを見出そうとするのだけれど、こんな無差別犯の犠牲になってしまうと「人は理不尽に死んで(殺されて)しまうことがある」という解釈しかできなくなる。
 被害者が悪いわけでもないのに、その人を語るときには「あの事件の犠牲となった……」という前置きがつき、世の中からは「かわいそうな被害者」として記憶されてしまう。
 そんな悪夢の瞬間の前には、多くの同じように人生を刻んできただけで、最期が違うだけ、それも、本人のせいではないのに。
 

 加害者のことは、ひどい事件、理不尽な犯罪であるほど、「語られる」。それが悪名であったとしても、人々の心に残る。
 だが、被害者は、その最期が不運であっただけで、「腫れ物」のような存在になってしまう。人生が「かわいそうに」で総括されてしまうのだ。
 だからといって、興味本位で、あることないこと語られればいい、というものでもない。当たり前だ。
 時間が経てば、被害者としてではなく、その人が生きてきた「それまで」を知ってほしい、と思う家族もいるだろう。
 だが、そのころにはもう、視聴者の目は次の事件に向いているのだ。


 無差別犯罪や快楽犯罪の犠牲になるというのは、本当に理不尽で報われないことだと思う。
 せめて、そっとしておいてほしい、と思う家族もいれば、本人が生きていた証のほうも伝えたい、という家族もいるだろう。
 どちらが良いとか、そういうものではないし、事件から経過した時間によっても異なるはずだ。
 名前というのは、単なる記号であるのと同時に、その人そのものでもある。『千と千尋の神隠し』ではないけれど。
 この『いつかの夏』に記録された女性が「Aさん」だったら、僕は、このノンフィクションに、もう少しよそよそしい感情を抱いたのではないか、という気もする。


 僕は被害者の実名報道には反対なのだけれど、こういう事件の「被害者」あるいはその家族になるというのは、なんて理不尽かつ救われないことなのか、と考えずにはいられない。
 被害者になるのは、割に合わない。どうみても。
 だが、こういう事件がなくならない限り、誰かが犠牲になる。
 次は、自分の番かもしれない。


 人の生死というのは、理不尽で、不公平だ。

 
 このエントリには、すっきりするようなオチや教訓はない。何もない。


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