いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「どんなときにブログを書きたくなるのか?」という問いに対して、僕がたどり着いた答え

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」


 けっこう長い間やっていると、むしろ「ブログを書きたくないとき」のことを考えてしまうのです。
 書くほうが「日常」なわけで。
 とはいえ、「書きたくてしょうがない」というときもあれば、「ちょっと前と間隔が開いたし、今日あたり何か書いておこうかな」というときもあります。
 僕の場合、「これは書かずにいられない!」というときと、「とりあえず更新しておこう」という回には、けっこうテンションに差があるので、たぶん、わかる人にはわかるのだろうな、とも思うのですが。まあ、そんなにみんな、他人のブログなんて、一生懸命読んでないよね。


 基本的に、どうしても書きたくなるときというのは、喜怒哀楽、いずれかの方向に、心が動いたときが多いのです。たとえば、「喜」「楽」は、こういう記事。


fujipon.hatenablog.com
fujipon.hatenablog.com



 「怒」は最近では、こういうやつかな。
fujipon.hatenablog.com
 以前はこういうエントリも書きました。
fujipon.hatenadiary.com



 「哀」は、ときどき思い出したことを書かずにいられなくなるんですよ。
 ブログのおかげで、記憶が風化しないで済んでいるところもあるのです。
fujipon.hatenadiary.com
fujipon.hatenablog.com



 あとは、日常の疑問シリーズなど。
fujipon.hatenablog.com
 これ、最近見かけなくなったな、と思っていたら、今年の夏に名古屋港水族館でやってました。


 広島カープ話に本のまとめなど、なんでもあり、ですね。われながら。
 いろんなことが書ける、でも、結局何も書けていない。そんなブログ人生。
fujipon.hatenablog.com

 それでも、僕なりにブログを書くことによって、人生少しマシになったような気はしています。
 どこに引っ越しても、転勤・転職しても、ブログはいつも、ここにある。
 ものすごく多い、とまではいかなくても、読んでくれている人がいる。


 「どんなときにブログを書きたくなるのか?」という問いに対して、いろいろ考えてみたのですが、僕がたどり着いた答えは「寂しいとき」でした。
 「寂しさ」って言っても、周りに誰もいなくて寂しい、とか、頼れる人がいない、とか、もっとモテたい、とか、そういう寂しさとは、ちょっと違う。
 なんというか、こうして生きていても、いつかは無に還っていくのだよな、とせつなくなったり、僕がやっている仕事の代わりができる人はたくさんいて、はたして、これを自分がやっていることが、みんなの幸せにつながるのだろうか、と疑問になったり、がんばっているはずなのに、周囲とうまく噛み合わないというか、手応えがなかったり、そうして生きていくうちに、どんどん年ばかり重ねていって、何もできないまま死んでしまうのかな、と怖くなったり、うまく言葉にできないような、漠然とした虚無感が心の中に広がってきたり。
 周囲の誰かに「寂しいんです」なんて、なかなか言えないし、言われたほうも困るだけだろうと思う。
 そもそも、なんで寂しいのか、自分自身でもよくわからない。
 僕は、そんなときに、ブログを書きたくなります。
 もちろん、そこで「寂しい」なんて書かないのが、大人の処世術ってやつなのですが。
 そうやって書いたものを誰かが読んでくれると、少し、気分が楽になる。
 人生、大概の問題は、時間をやり過ごしてしまえば、うやむやになってしまうものですし。
 書いたもので、世の中が、0.000001ミリでも、良い方向に進んでくれれば、とか、ブログは僕にとっての長すぎる遺書なのだ、とか言っているのですけど、結局、誰かに構ってほしいだけ、なのかもしれません。
 書いたら書いたで、また違った「寂しさ」に苛まれることもあるのですけどね。


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