いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

phaさんの「ひきこもらない」と、僕の「ひきこもれない」


keizokuramoto.blogspot.jp


これを読んで考えたこと。
僕は最近、phaさんの『ひきこもらない』という本を読みました。


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そのなかで、ものすごく印象に残ったのが、この文章だったのです。

 結局、自分が欲しいものは最初からすべて狭い部屋の中にあった。外に何かを求める必要はない。
 ただ、同じ空間にずっといると飽きてしまったりするから、ビジネスホテルに泊まるみたいにときどきちょっとだけ環境を変えてやって、何か少し世界に新鮮味があるような錯覚を自分に与えてやればいいんだろう。大体世界に画期的な変化なんてほとんど起こらなくて、ほとんどは自分が少し世界の見方を変えることで何かが変わったような気がするだけだ。
 人生なんていろいろあるようで結局そんなもので、狭い範囲を行ったり来たりしながら同じことを繰り返して、体力が余ったら適当に消耗させて、たまに気分を変えるために違うことをしてなんかちょっと新しいことをやった気分になって、そんなサイクルを何回も何回も何回も繰り返しているうちに、そのうちお迎えが来て死ぬのだろう。まあそんなもんでいいんじゃないだろうか。


 phaさんのサウナ通いやビジネスホテル好き、同じ場所にずっと住むのが苦痛だ、という話を僕は『ひきこもらない。』で読みました。
 phaさんは、ある意味「天才理論家」なのかなあ、とも思うし、お金もそれなりに稼いでいる。
 その行動原理は「自分にとって、気持ちの良いことをする(そして、気持ち悪いことを避ける)」ことで、それは、刹那的な快適さでも構わない、というものだと僕は感じました。
 ある種の社会運動のようで、そんなめんどくさくないことには、関わりたくない、というふうにもみえて。


 冒頭のエントリは「phaさんのようなニートの能力を社会は活かすべきだ」という話だと思うのです。
 でも、phaさん側には「『能力があるのなら、社会に活かさなければならない』というプレッシャーをかけられることが、つらくて仕方ない人たち」が多いのではなかろうか。
 これは、決定的なすれ違いのように、僕には思われます。


「ほら、君たちはこんなに社会の役に立つんだよ、がんばれ!」
「いや、僕たちは、社会の役に立ちたいんじゃなくて、自分の人生を楽しみたいんです」


 いまは、人類の歴史のなかで、そんなに悪い時代じゃないと思うのです。
 少なくとも生命維持は縄文時代より、ずっとラクなはず。
 まあ、そんな大昔と比較しなくても、太平洋戦争の頃、70年前の日本と比べてみれば、「自由」ではあります。
 戦争に行けとは言われないし、結婚して子供を残さなければ、家が断絶する、と周囲から圧力をかけられるわけでもない。問題発言をしたからといって、特高に引っ張られることもまずありません。まあ、ネットで炎上する可能性は否定できませんが。
 いろんなことが「自由」になって、「自分のことを最優先に考えていい世の中」になり、無宗教な社会では、結婚しない、子供をつくらない、という選択をする人が増えてきたし、「無理に人と合わせて働きたくない」という声も上がってきました。
 

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「生きている意味」を問う人に、V・E・フランクルさん(精神科医で、『夜と霧』の著者)はこんな話をしています。

たとえば失業者の場合はどうなるのか、とここで異議を唱える方もあるでしょう。でも、お忘れにならないでください。職業上の労働は、自分の人生の活動にとって意味のある唯一の場ではありません。

 それよりは、つぎのような思考実験をするだけにしておきたいものです。ぜひ思い浮かべてみてください。あなたは、コンサートホールにすわって、大好きなシンフォニーの大好きな小節が耳に響き渡っているところです。あなたは、背筋がぞくっとするほどの感動に包まれているとします。そこで、想像していただきたいのです。心理学的には不可能でも、思考実験は可能だとおもいます――その瞬間にだれかがあなたに「人生には意味があるでしょうか」とたずねるのです。そのときたった一つの答えしかありえない、それは「この瞬間のためだけにこれまで生きてきたのだとしても、それだけの甲斐はありましたよ」といった答えだと私が主張しても、みなさんは反対されないと思います。
 けれどもまた、芸術ではなく自然を体験した人にしても、おなじことでしょうし、ひとりの人間を体験した人にしてもおなじことなのです、ある特定の人を目の前にして心を捉えるあの感情、言葉で表現すると、「こんな人がいるだけでも、この世界は意味をもつし、この世界のなかで生きている意味がある」とでもいいたくなるような感情は、だれもがよく知っています。


 ものすごくシンプルに考えると、風呂上がりの1杯のビールのために生きていて、何が悪い?って話なんですよね。
 こういう話をしていると「少子化で将来の日本が……」「働かない人たちは、働いている人たちに依存して生活している」という意見も出てくるのです。
 じゃあ、「日本の将来のため」に「あなた」が意に染まない相手と結婚させられ、自分の生活を大きく変える子供を持つことを強要されても良いの?


 個人的には、「はたらかない」というのは、けっこう精神的にストレスが大きいものだな、と、昨秋働いていない時期があった僕は感じました。
 自分は「はたらきたくない人間」だと思っていたのですが、はたらいていないと「いま事故で死んだら、『無職』とニュースで伝えられるのだろうか?」なんて考えてしまうのです。
 つまらないことでイライラしたり、自責の念に駆られたりしました。


 僕はたぶん、ニートには向いていない。
 それは、元々そうなのか、長年「勤労の美徳」を刷り込まれてきたからそうなったのか、よくわからないのだけれど。
 僕のなかでは、「中途半端な地方エリートの価値観」が脈々と息づいているのを痛感したのです。
 「みんなに合わせてはたらくのは苦痛」なのだけれど、「そういう輪から外れてしまうと壮絶な無力感にとりつかれてしまう」。
 境界にいる人間は、けっこうめんどくさい。
 正直、いまでも、phaさんに対して、京大を出ていて、こんなに理論武装できて魅力的な文章を書ける人なのに、もったいないなあ。って思うことがあります。
 でも、だからこそphaさんはニートとして生きていけるわけで、本当に何も持たない人は、たぶん、ニートの意味さえも知らない。
 以前、朝日新聞で「ワーキングプア」の特集がされたときに、「本物のワーキングプアは、朝日新聞なんて読まねえよ」という突っ込みがなされていたのですが、たしかにそうだと思う。
 ただ、そういうのを誰かが朝日新聞に採りあげることで、社会に認知されるというメリットはある。

 
 人を殺したい、とか、性的暴行を加えたい、というような「欲望の充足」は許されないはずです。
 では、「教育」「勤労」「納税」は国民の義務だけれど、「はたらくことに強い苦痛を感じる人が、はたらきたくない、はたらかない」というのは、どうなのだろう?


「ひどく迷惑をかけるのでなければ、社会の役に立たなくても、良いんじゃない? どうせ、そんなにたいしたことが自分ごときの力でできるわけじゃないんだしさ」
 そう考えたほうが、人間というのは「幸せ」に近づけるのではないだろうか。
 世の中、そういう大人のほうが多いような気もします。
 「みんなのため」「社会のため」に何かをやるというのは、それはそれで快感ではあるのだろうけど。


ひきこもらない (幻冬舎単行本)

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それでも人生にイエスと言う

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