いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「『神』というのは、理不尽でな無慈悲なことをするからこそ、『神』であり、信仰の対象になるのだ」


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二番目のエントリのブックマークコメントには、批判的なものが多いようです。
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僕も10年前だったら、たぶん二番目のエントリを批判していたのでしょうけど、宗教についての本を読んだり現地の人々の考え方に触れたりすると、「信仰とはそういうものだ」というのは、けっして間違いではないと思うんですよ。
宗教の教義に合理的な説明を試みるのは悪いことではないけれど、その宗教を信仰している人たちに「科学的な解説」を押し付けるべきでもない。


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 この本のなかでは、「神の理不尽」が、これでもかと紹介されています。
ヨブ記』は、旧約聖書のなかでも有名な「諸書」のひとつです。
これは、「神を信じて正しく生きていた「義人」ヨブの話なのですが……

 それ(ヨブが正しく生きていること)をヤハウェユダヤ教の「神」)が満足していると、サタンがやって来て、こう言います。「ヨブがああなのは財産があるから。それに、子どもも立派だからです。それを奪ってごらんなさい。すぐに神を呪うに決まっています」。ヤハウェはそこで、財産を奪い、子どもも全員死なせてしまった。でもヨブはまだ神を信じていた。「神は、与え、神は、奪う。神が与えるものを感謝して受け取るべきなら、苦難も同様に受け入れよう」。そこで今度は、サタンの提案で、ヨブの健康を奪ってみた。ひどい皮膚病になり、身体を掻きむしって血だらけで、犬に傷口をなめられる。ゴミ溜めに寝ころがる、ホームレスになっちゃった。それでもヨブは、まだ神を信じていた。神とヨブの根比べです。
 そこへヨブの友達が三人やってきて、いろいろ質問をする。「ヨブ、お前がこんなにひどい目にあうのは、何か原因があるにちがいない。おれたちに隠して罪を犯しただろう。早く言え」。ヨブは反論して、「私は誓って、決して神に罪を犯していない。何も隠してもいない」。すると友達は「この期に及んでまだ罪を認めないのが、いちばんの罪だ」。話は平行線で、友達もなくしてしまった。
 ヨブにとっていちばん辛いのは、神が黙っていることです。ヨブが神に語りかけても、答えてくれない。ヨブは言う、「神様、あなたは私に試練を与える権利があるのかもしれませんけど、これはあんまりです。私はこんな目にあうような罪を、ひとつも犯していません」。するととうとう、ヤハウェが口を開く。「ヨブよ、お前はわたしに論争を吹っかける気か。なにさまのつもりだ? わしはヤハウェだぞ。天地をつくったとき、お前はどこにいた? 天地をつくるのは、けっこう大変だったんだ。わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した。そんな怪獣をお前は相手にできるか?」みたいなことをべらべらしゃべって、今度はヨブが黙ってしまうんです。
 さて、最後にヤハウェは、ヨブをほめ、三人の友達を非難する。そして、ヨブの健康を回復してやり、死んだ子どもの代わりに、また息子や娘をさずけた。娘たちは美人で評判で、ヨブはうんと長生きをした。財産も前より増えた。めでたしめでたしです。ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した。


 まあ、人間側からみれば、ひどい話ですよね。
 なんでこんな無茶なことをする存在を信じようと思うのか。


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 この本の著者は「ギャンブルにおいて大切なことは、『変幻自在であること』」だと述べています。
 草食動物が肉食動物から逃げる際に、必ず最短距離を走ると決まっていれば(それは、理屈でいえば「合理的」なのですが)、肉食動物は容易に獲物の進路を予想して、捕まえることができるのです。
 だから、草食動物は、最短距離ではなく、ジグザグに走ったり、スピードに変化をつけたりするのです。

 歴史上の暴君はみんな自分の権力を維持するために、予測不可能に激怒するという戦略を取ってきた。カリギュラヒットラー金正恩もみんなこの「狂犬戦略」をとってきた。ある一定の閾値を超えると怒り出す暴君だったら、配下のものたちは怒りがその閾値に達しないところで振る舞っていればいい。ところが、もし女王に好意を示すハグをしても明るく接していた暴君が、翌日同じことをしたら首をちょんぎるという行動に出たとしたら、配下のものたちはいつも怯えていなければならなくなる。手下を怖がらせるには「不確実性」だけで十分なのである。暴君というものは、真にランダムに人を殺すことができなければ、その地位を守るのは難しい。飽きっぽかったり、気分に左右されたり、一貫性がなかったり、奇抜だったりすることが必要だということで、それもまた変幻自在性の一側面かもしれない。
 ぼくらは、ギャンブルにおいてはつねに暴君のように振る舞わなければならない。別に清廉潔白であってもいいが、そんなふうにしていても誰にも褒められることはない。だから、ギャンブルにおいては、ただ合理的な判断力にすぐれているというのではダメで、あえて「飽きっぽかったり」、「気分に左右されたり」、「一貫性がなかったり」、「奇抜だったり」する必要があったりする。ときには自分でも自分の行動が理解できないという方法を選択するかもしれない。それほど自由でなければならないということである。「実力で勝つうちはまだ二流、本当に強い人間は運で勝つ」というのは、かように複雑な戦略なのである。

 だから、一見したところ、ギャンブラーはみんな悲惨な末路をたどることになると信じられているが、そんなことはけっしてない。彼らはギャンブルから多くを学び、それを人生に活かしたり、まったく別の出来事をギャンブルになぞらえて解決したりして、それぞれの道を歩んでいるのである。あえて言うならば、「財を成す」ことがギャンブラーの最終目的ではない。そうではなく、あえて言うならば、「いかに生きるか」を知ることこそがもっとも大切なことなのである。


 これを読んでいて、佐藤優さんが、「キリスト教において、『神』というのは、理不尽で無慈悲なことをするからこそ、『神』であり、信仰の対象になるのだ」と仰っていたのを思い出しました。
 こちら側から「計算できる」ような相手ではないからこそ、「信じる」しかない。
 機嫌次第でひどいことを平然とやる独裁者に、なぜ、なかなか逆らうことができないか、という問いへの答えにもなっていますよね、これ。
 いわゆる「メンヘラ」の言いなりになってしまう人がいるのも、こういうことなのかもしれません。
 理不尽で、どのくらいが「閾値」なのか、次に何をやってくるのかわからないからこそ、常にこちらは怯え、服従しているしかない。
 それは「理不尽なことばかりの人生の責任を、自分ひとりで被らなくても済む」ことにもなりますし。
 もっとも、そういう理不尽な行為があまりに蓄積していくと、暴君の場合は、打倒されてしまうことがほとんどなのです。
 しかしながら、「神」は、倒すことができない。
(現代の合理主義は、ある意味「神を無力化した」とも言えるのかもしれませんが)


 僕は特定の宗教への信仰を持たない人間なのですが、それでさまざまな制約から逃れられているのと同時に、「さまざなま角度から物事をみていたら、何が正しいのかわからなくなってしまう」ことがよくあるのです。
 「人間、死んだら『無』になる」って、あらためて考えてみたら、やっぱり怖い。
 あんまりたいした人生じゃないとは思うけど、その「思う」機能すら失われてしまうのだから。
 信仰を持つことで、いろんな状況に耐えたり、幸福になれたりする人もいるはずです。
 だからといって、僕は今更なにかの「敬虔な信者」にはなれないし、ならないだろうけど。


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