いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

この世界と、理不尽な悪意について


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最近、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のTVシリーズのDVDを少しずつ観ているのだが、そのなかで、登場人物のひとつである女子高生・安城鳴子が、友人たちと合コンに行き、半ば友人たちに騙されるような感じで、合コン相手の男のひとりにラブホテルに連れ込まれそうになるシーンがあった。

僕はこの手の「無理矢理」とか「相手の隙につけこんで、性行為に及んでしまおう、という話」が、なんだかすごく苦手で、フィクションだとわかっていても、ものすごく不快な気分になる。
そもそも、そんなふうにして、嫌がる相手を丸め込んで行為に及んでも、楽しくも気持ち良くもないし、自分にとっても相手にとっても「汚点」になるだけではないのか。
その一方で、世の中には、「相手も本当は望んでいるのだ」とか「きのうは、おたのしみでしたね」みたいな考えの人もいるし、そういうシチュエーションでこそ、興奮するという人もいるのだ。

ただ、その相手の男子高校生が、ものすごく悪いヤツなのかというと、ノリと相手のプライドをくすぐることで、事に及んでしまおうとする「どこにでもいる男」なのではないか、とも思う。
そういう積極性、みたいなものは、ちょっと羨ましいというか、自分に自信があるんだろうな、他者を傷つけるということが怖くないのだろうな、とも感じる。

僕自身が、そういうことに対して、過剰に潔癖なのかもしれないし、単に性欲が平均より劣っているのかもしれない。
それはそれで、落ち込むようなことではないのだけれど、自分は何かが欠けているのではないか、と、ふと考えることもある。
男子高校生なんて、そんなもんだよ、と言われそうでもある。
ああいう男子高校生の大部分は、「普通の大人」に、たぶん、なっていく。


性的なものというのは、ものすごく幅が広くて奥が深いところがあって(それも考えすぎなのかもしれないけれど)、何が正しくて何が間違っているのか、というのは、けっこう難しい。というか、よくわからない。


堀江貴文さんが収監中のことを書いた『刑務所わず。』という本のなかに、こんな話がでてくる。


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 なかでも、最も反省の色がうかがえなかったのが中部地方出身の「魚河岸くん」。私と同じ工場の衛生係で、ちびで小太り、調子のいい子分タイプの若造だ。子供の頃から悪さをしてきて、その様子は聞いているだけでもドン引きレベル。


(中略)


 が、彼が捕まったのは窃盗や車上荒らしではない。「強制わいせつ」なのである。美容師を目指して関西に出た彼は、川沿いの人里離れた場所にワゴンを停車、通りかかった女性を拉致し強姦していたらしい。地元に返ってもその癖は抜けず、真っ暗なロードサイドを自転車で走っている女子高生を見つけては、自転車ごと田んぼに蹴飛ばし脅して強姦したという……。テレビドラマかケータイ小説でしか聞いたことがないような、ちょっと想像を絶する話に、私の口から出た言葉は「よく、萎えずに勃つよね……。俺は無理だ」のみ、
 そんな鬼畜な彼は、対人スキルが低いどころか、むしろ高め。シャバにいた頃は魚市場に勤務し、奥さんと子供までいる。悪事を働かなくても、十分に楽しい生活を送れるだけの能力があると感じた。となれば、気になるのは「なんで、リスクを犯してまで犯罪を犯すのか?」ということ。一度、
「対人能力のスキルがあって営業力もあるから、悪事を働かなくても生きていけるはずなのに何でそんなことするの?」と尋ねたことがあった。彼の答えはこうだ。
「たしかにそうなんですけど、仕事も2〜3時間で終わるんで暇があって、その間にソーシャルゲームやったりとか車上荒らしとか強姦したり……。やっぱり、病気ですね」
 つまり、趣味のレベルで車上荒らしや強姦をしていたのである。それを聞いた瞬間、開いた口が塞がらずポカーンとなったのは言うまでもない。


 この「魚河岸くん」のレベルになると、病気というか、「良心とか罪悪感というのが、極度に少ない人間がいるのではないか」と考えずにはいられない。
 そして、こういう人を「更生」させることって、本当に可能なのだろうか、と思う。
 「人は誰でも変わることができる」と言う、「良識と善意ある人々」もいるけれど、すべての人に更生が可能なのだろうか。


 そもそも、加害者側がどんな理由や事情を抱えていようと、無差別に振りかざされた凶器で、人は死んだり、致命的なダメージを受けたりする。
 

 そして、被害者を支援する人たちも、いつのまにか、守りたいのは被害者ではなく、自分の政治的主張になってしまう。


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 この本のなかで、「福岡事件」の被害者「原告A」こと晴野まゆみさんは、当時のことを、このように述懐している。

 晴野は自己を「分裂」させて奔走していた。原告A子は透明人間であったり、晴野まゆみであったり、無数の女性の象徴にもなったりした。一方の晴野まゆみ本人は原告A子になることもあれば、支援団体のメンバーとして原告A子を支え、そしてフリーライターとして働く日々も過ごしている。何の疑問も抱かずに、晴野は様々な場面で求められるキャラクターに「変身」してきた。
 ところが、ある一言が粉々に晴野を打ち砕いた。
 それは編集長の証言がよれよれになってきた頃のことだった。ひょっとすると、いいところまでいくのではないかと誰もが漠然とした期待を抱いていたが、そんな時期に交流集会が開かれた。
 集会終了後、茶話会が開かれ、傍聴者と支援団体の交流が行われた。メンバーの紹介役を務めた女性は一人一人の役割を傍聴者に説明していたが、晴野のところに来ると言った。
「そして、この人が何もしない被告」
 晴野は耳を疑った。冗談のつもりだったのかもしれないが、やはり晴野の心は深く傷ついた。それは、ある意味で支援者の言ったことが当たっていたからだった。原告A子は透明人間だった。姿も形も見えない人間が「何かできる」はずがない。それに、晴野はフェミニズムの知識が皆無だったため、支援団体の中では「意識の遅れた」「勉強をしなければならない」存在だった。
 それに何より、晴野は弁護料を支払っていなかった。全ては弁護士の「無料奉仕」と支援団体のカンパに頼っていた。しかも、この裁判は晴野のものではなく「全ての女性」のために行われているというのだから、確かに晴野は「何もしない被告」なのだ。結局のところ、晴野を傍聴者に紹介した団体のメンバーは、本人は意図しなかったかもしれないが、必要なのは「原告A子」であって、それが晴野であるかどうかはどうでもいいと言ったに等しいのだ。晴野、もしくは原告A子は、フェミニズム論者の担いだ御輿にすぎなかった。それは紛れもない事実であって、それを思い知らされたから晴野は傷ついたのだった。
 だが、晴野はあふれ出そうになる気持ちを必死に抑え付け、とりあえず何事もなかったように振る舞った。とはいえ、心の中にぽっかり穴が開いたようになってしまった。


 個人が大きな組織と戦うためには、ひとりでは難しい。
 そして、そういう人を支援してくれる団体も、世の中には少なからず存在している。
 しかしながら、多くの事例で、支援者たちは、その事件を「自分たちの主張をアピールするための材料」にしてしまって、被害者を置き去りにしがちだ。
 「あいつらがバックについているから、政治的な意図があるはずだ、ハニートラップだ」
 そういう支援団体なしで、個人の力でやれることは、あまりにも限られている。
 だが、そういう大きなものに頼ると、利用されてしまう。
 どうすればいいのだろうか。
 一度、そういう「悪意」に牙をむけられたら、被害者になったら、それでゲームオーバーなのか。
 そんなことはない、と言いたいけれど、一度植えつけられたイメージというのは、そう簡単にリセットできるものではない。
 そんなことができるのなら、もっと大勢の日本人がアドラー心理学を実践しているはずだ。本はあんなに売れているのに、アドラーの「教え」で実際に変わったという人を、僕は知らない。


 人って、ご都合主義なんだよね、基本的に。
 会社の組合活動なんて敬遠している人が多いと思うのだけれど、彼らが妥結した賃上げを「自分は組合には関係ないから」と拒否する人はいない。


 安城鳴子をラブホテルに連れ込もうとした男子高校生のようなことを僕ができなかったのは、良心があったからではなく、勇気がなかったからではないのか、なんて、考えてみたりもする。
 そして、そういう性的なこととは別のところでも、僕はたぶん、いろんなものを傷つけて、そのことに気づいてすらいない。
 一度「ランダムに振りかざされる悪意や欲望」に捕まってしまえば、もう、被害者も加害者も、元いた場所には戻れない。



 なんだか、よくわからないことを、よくわからないまま書いてしまって申し訳ない。
 『あの花』については、またあらためて。
 

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セクハラの誕生

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