いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「アンタッチャブルな正しさ」で、誰かを徹底的に追い詰めるということ


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 これは、能町さんの「逆鱗」に触れることだったのだろうな、と思いながら読みました。
 僕は能町さんが言っていることが正しいと思うし、北条かやさんという人は、文章を商売にしているのに、あまりにも配慮も覚悟も足りない、と感じています。


 これを読んでいて、以前、インターネットで僕のことを批判してきた人たちがいたことを思い出しました。
 いや、批判はしょうがないんだけど(まっとうな批判の範疇であれば、いちいち反応もしないことがほとんどです)、人格攻撃や家族にまで言及した誹謗中傷や、「どこそこであの人の悪口を言っていた」とか、根も葉もない嘘まで書かれていたのです。

 
 第三者として読むと、「こんなのどっちが正しいかなんて自明の理なんだから、相手にしないほうがいいんだよ、スルー推奨!」って気分になるのだけれど、当事者としては、「黙っていては、向こうが正しいことになってしまうのではないか」と不安になってくる。
 ネットの良識派たちは「揉め事には介入しない。スルー推奨」だし、「下手に応援したりすると、かえって面倒なことになる」ことも知っている。
 その結果、どういうことになるかというと、良識派は沈黙し、「面白ければいい」と、不毛な争いを煽る人が相手の言うことに賛同したり、「もともとお前は気に入らなかったんだ」というコメントを僕に対してする人も出てくる。「どっちもどっち」って、向こうはデマを書いてこちらの社会的信用を失わせてきて、こっちは自分を守るために戦っているだけなのに、何が「どっちもどっち」なんだよ!
 ネットで「炎上」とか「揉め事」が起こっているときって、その当事者は、台風の目にいるような孤独感を味わっていることがあるのです。


 リングから下りたら、自分が負けたことになってしまうのではないか。
 そんな強迫観念めいたものに取り憑かれたりもするのです。
 僕の場合は、本当に限界になったら、もうリングを下りて、「名無しさん」に戻るという手段もあるけれど、能町さんは文章の世界、言論の世界で生きている人だから、そういうわけにはいかない。
 金網デスマッチみたいなもので、対戦相手をノックアウトしないとこのリングから出られない。
 僕たちは、観客であり、金網でもある。


 ただ、僕は冒頭の能町さんのエントリと、それに乗じて北条かやさんをバッシングする人たちのコメントをみて、なんだかすごく気が滅入りました。
 すごく、つらかったことを思い出したのです。


 その上司は、僕が(今から思うと)些細なミスをした際に、強い言葉で僕を責めました。

 「お前は仕事を、社会を甘く見ている。お前は向いてないよ、お前みたいなのが仕事をやってたら、みんなが迷惑する」
「すみません、僕の注意不足でした。けっして、甘くみていたわけじゃないんです」
「じゃあ、なんであんなミスをするんだ? だいたい、俺に謝って済むと思っているのか!」
「すみません、今後は二度とやらないように気をつけます」
「気をつけるって、何に気をつけるんだ! そんなの無駄無駄。注意したらミスしないようなヤツは、最初からミスなんてしないんだよ」
「じゃあ、どうしたらいいんですか……」
「そんなの自分で考えろよ、子どもじゃないんだから」
「…………」


 ああ、書いていて、動悸がしてきた。
 このときの僕には、「死んでお詫びします」という言葉が、頭に浮かんでいました。
 だって、謝ってもダメ、改善策を示そうとしても即刻却下、そんなの、辞めるか死ぬしかないんじゃないか、って(なら辞めろ、って話なんですけどね)。
 言い返せるほどの胆力はなかったけれど、これは上司の理不尽な怒りだ、とは感じていたのです。それを口にはしませんでしたが。
 その頃の僕にとっては、この上司とそりが合わないことは、逃げ場のない悩みだったのです。


 ちなみに、この上司は、他の若手に対する不祥事で、突然どこかに行ってしまいました。
 助かった、というのと、僕が告発できていれば、被害者を減らせたのではないか、というのが、いまでも入り混じっています。


 でもさ、人って怖いよね、自分が上司とか親とかになってみると、こういう「圧倒的に正しい立場にあるときに、他人を徹底的に逃げ場のないところに追い詰めてみたくなる衝動」って、自分自身のなかにも感じるんですよ。


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 能町さんは、冒頭のエントリで、こう書いておられます。

おそらく彼女は「安易ではない。本当に自殺しようと思っていた。本気だった」などと見当違いな反論をしそうだが、本当に死ぬ気かどうかなんてことは本質的には関係がない。まず、命を引き替えに人の言葉を封じようとしたことが問題なのだ。突然「死んでお詫びします」と言い出すのは、「それ以上言うとコイツを殺すぞ」という脅迫と同じである。


 たしかに、自分の命を人質にして、誰かを脅迫するのは、卑劣極まりない行為です。
 こういう人が身内や友人にいたら、いつも夜中の電話に怯えながら生きていかなければなりません。
 「こじらせ」の件や「飛田新地」の件についての北条かやさんは、間違っていると僕も思う。
 でも、これらの件についての能町さんの北条さんへの圧力のかけかたや追い詰めかたは、北条さんが何と言っても「それで許されるわけがないだろう」「お前はどうすれば許されると思っているんだ」「お前は本心ではバカにしているんだろう」という容赦のないものに感じられます。
 何を言っても「それじゃダメ」「自分でちゃんと考えろ」と否定されてしまう。
 それじゃあ、「死んでお詫びします」としか、言いようがなくなってしまう。
 そこでさらに「死んでお詫びするなんて、脅迫だ」とまで逃げ道を塞がれたら、そんなの、もうどうしていいかわからないに決まっている。
 本当は、北条さんが最初に「ごめんなさい」って言っていれば、済んだ話なのかもしれません。
 あるいは、うるせえよバカ!って逆ギレするか。
 

 本来は、ここまで追い詰める前に「こうすれば今回の件についてはこれ以上あなたを責めません」という条件提示があって然るべきだったのではなかろうか。
 今の流れは、「何かを改善しようとしている」のではなく、「ただ、憎い相手を徹底的にぶっ壊そうとしている」ように見えるのです。


 能町さんは、正しいですよ。
 北条さんやイースト・プレスが、能町さんの「逆鱗」に触れてしまったのもわかる。
 でも、人を追い詰めすぎることは、自分の空気穴を塞ぐことにもなる。
 能町さんにとっては「義憤」なのだろうけれど、僕は、「雨宮まみさんという故人を『代弁』することによって、能町さん自身が『アンタッチャブルな正義』になっている」ようにも感じています。


「どうせ、本気で死ぬつもりなんて無いんだから」
 そんなの、わかりませんよ。
 実際、人なんて、首つりのまねごとをしていたら、ふと台から足が離れちゃったり、腹が立って衝動的に近くにあった農薬を飲んでしまったりすることもあるから。
 ものすごく元気そうに見えた人が突然死を選ぶことだって、そんなに珍しいことじゃない。
 むしろ、「ちょっと元気になってきたようにみえるときが要注意」だと、精神科の講義で習った記憶があります。


 ああ、なんだか能町さんを攻撃しているような文章になってきてしまった。
 すみません、そんなつもりじゃないんです。
 僕は、能町さん、そして、能町さんの尻馬に乗って北条さんに「どうせ死なないんだろ」って言い放っている人たちに聞いてほしい。
 正しさは快楽でもあるのです。
 人は正しさに酔って、「間違っている人たち」を逃げ場のないところまで追い詰めてしまう。
 電通事件のとき、清水富美加さんのとき、「仕事をやめても、周囲の人に負担をかけることになっても、それでも、ただ、あなたに生きていてほしい」と多くの人が訴えたはずです。
 北条かやさんには問題が多いのだとしても、ファッションメンヘラなのだとしても(本当にそうなのかどうかはわかりませんが)、出口を塞ぐようにして徹底的に追い詰めると、相手を傷つけ、自分を怪物にしてしまうだけで、誰も幸せにはなれない。
 

 僕は当事者じゃないから、こういう綺麗事が言えるのでしょう。
 それは承知の上で、「当事者じゃないから言えること、言っておくべきこと」も、あるのだと思っています。


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