いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「侍ジャパン」が苦手だ。

www.japan-baseball.jp


ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が盛り上がってきていて、僕も「身近な人がどこのチームのファンだか確認せずに応援できる日本代表」って、応援しやすくてラクだよなあ、なんて思いながら観戦しております。


でも、こういう大会のたびに、僕はちょっと引っかかってしまうところがあるんですよ。
それは、チームの「愛称」のこと。
今回は、野球の男子日本代表チームは「侍ジャパン」という愛称で呼ばれているわけですが、まあ、なんというか、「今の日本に侍なんていないだろ、外国人に『日本といえばフジヤマ、ゲイシャ』って言われたらムカつくのに、なんで『サムライ』はOKなんだ?」とか思ってしまうのです。
そもそも、大部分の日本人(そして、代表チームの選手たち)の祖先は「侍」じゃなかったはずだし、侍がえらい、すごいというのは身分制度を肯定していることになるのでは。
多くの時代において、侍というのは、農民や商人からの年貢や税で生きてきたにもかかわらず、血統的に侍の子だというだけでの理由で、「偉い」とされてきた存在なわけです。
黒澤明の映画に出てくるような、弱者を助ける「カッコいい侍」というのは、「侍の歴史」のなかの、ごく限られた期間の限られた地域に出現したものでしかありません。
むしろ、いま生きている大部分の日本人の祖先は、「侍に搾取される側」だったのに、なぜこういう「侍ジャパン」という愛称を抵抗なく受け容れられるのか?
(「搾取」って言っても、必殺仕事人の中村主水さんみたいな感じ、「本人たちにもそういう意識は無いまま、ゆるやかに寄生していた」というくらいなんでしょうけど)


……とか書いていて、なんだか釣りっぽいな、と自分でも思えてきました。
僕だって司馬遼太郎歴史小説を読みますし、『真田丸』も熱心に観ていました。
浅田次郎さんの『壬生義士伝』も大好きです。
こういう「侍コンプレックス」みたいなのは、僕が1970年代から80年代に「徹底して戦後の平和教育を押し進めようとしてきた先生たちに教えられてきたから、なのかもしれませんね。


最近ベストセラーになった『サピエンス全史』を読んでいると、「人間は平等だ」というのは、現在の世の中の「そうであるべきだ」という理想であり、人類の歴史のほとんどは、「平等でないのが当たり前」だったのです。


そういう点では、「日本人の祖先(あるいは精神的な拠り所)は『サムライ』である」という「共同幻想」が、国の一体感を高めるのに利用されているとも言えます。
まあ、自分たちの先祖は、カッコいいほうが良いよね、それで今の自分に何かメリットがあるかどうかは別として。


fujipon.hatenadiary.com


それでも、個人的には「侍ジャパン」という呼称に対しては「どこに侍なんているんだよ……」と言いたくてしょうがないのです。
そんな僕も、シブガキ隊の「サムライ・ニッポン」にまでわざわざケチをつけようとは思いませんし、映画『ラスト・サムライ』を喜んで観ていたんですけど。


もともとニックネームとか苦手なんですよね。
友達をニックネームで呼ぶのも勇気が要りました。
「なでしこJAPAN」とかも、なんだか口にするのが気恥ずかしかった。
サッカーの「ハリルジャパン」とかは、比喩が入っていないだけマシなのですが、単に「日本代表チーム」じゃダメなのだろうか、とは思います。


WBCに出場している選手は、インタビューなどで、淀みなく「侍ジャパン」って自分たちのことを言っている人がほとんどなので、抵抗感はなさそうです。
選手がそれでいいのなら、別に僕があれこれ言うことでもないのかな。
というか、ものすごく余計なお世話ですよねこのエントリ。


それでも、個人的には、延々と「侍ジャパン」なんて呼ばれなければ、もっと素直に応援できるのになあ、なんて、つい考えてしまうのです。
スポーツの代表チームの愛称に、その国を過去に支配していた、特定の階層の名前をつけるのって、「あたりまえのこと」なのだろうか?


でも、野球の男子日本代表チームは、応援しています!
菊池選手の「お迎え」(某チームの選手は年俸が高くなると放出されるという哀しき伝統があると言われています)が、WBCのおかげで、どんどん近づいてきているような気がするけど!


……って書いてみると「野球男子日本代表チーム」って、やっぱり長いし呼びにくいですね。


サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

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