いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「某国営放送で、めちゃめちゃ怒られていた人」は、なぜ『はてな匿名ダイアリー』を選んだのか?


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この匿名ダイアリー、誰が書いたんだろう?
……って、状況証拠(本人か本人に近い人しか知らないような情報が書かれている(本当かどうかはわからないけど)と、これについている「はてなブックマーク」からすると、川上さん御本人の可能性が高そうです。


僕もあの番組は観たのですけど、率直に言うと、「なんかめんどくさい人の『逆鱗』みたいなものに触れちゃって、川上さんも気の毒だな」って感じました。
宮崎駿という人は、「アニメーションをつくる天才」であって、別に人格者である必要はないわけで、そもそも「天才」ってそういうものなのだろうな、という気はします。
川上さんもまた「天才」であり、身も蓋もないことを言ったりやったりする人ですし。


このエントリを以前書きました。
fujipon.hatenablog.com

ルソーさんって、本当にひどい人ですよね。
ただ、ネットとかをやっていると、「ろくでもない人間が、頭の中でこねくりまわして『いいこと』を言っている」というのはよくあることで、「頭の中お花畑」だからこそ、花の美しさを臆面なく語れる、というところはあります。
自分自身がこれまで書いてきた「綺麗事」みたいなものについて、ものすごく申し訳ない気持ちになることもあるのです。
本当に立派な人間の多くは、ブログなんか書く前に、現場で身体を張っているよ。


先日『紅の豚』をTVで観ました。
僕はこの作品が大好きなのですが、大好きでありながら、最後のポルコとカーチスの空戦のシーンで、いつも考えてしまうんですよ。
「この2人(1人と1匹、か?)は、こんなに楽しそうにじゃれあっているけれど、本当は殺し合いをしていて、機関銃の弾があたれば、墜落して死ぬ(あるいは、相手を殺してしまう)のだよな」って。
ゲームのように、命のやりとりをするのが「粋」なのだ、ということなのかもしれないけれど、もし弾があたったら(あのシチュエーションだったら、普通どっちかが死ぬよね)、この物語は成立するのだろうか?
そんなこと言ってたら、物語なんて大部分は「ものすごい偶然」に支えられているのだ、と言われそうではありますが。
宮崎駿という人は、戦争は大嫌いなんだけど、戦闘機は大好き、なんですよね。
それっておかしくないか、というのと、人間ってそういうものだけどさ、というのと。
僕もヤクザは大嫌いだけれど、『龍が如く』で自転車振り回してチンピラを吹っ飛ばしてますし。


fujipon.hatenadiary.com


 「美しい飛行機をつくること」にしか興味がない技術者と「美しいアニメ映画をつくること」にしか興味がないアニメ監督。
 岡田斗司夫さんの立場、人脈なら、ジブリの「内情」についてもかなり知っているはずです。
 その岡田さんが、こんなふうに仰っています。

 宮崎駿宮崎吾朗の親子関係は並ではありません。
 宮崎吾朗は母親、つまり宮崎駿監督の奥さんから、
「あなたはお父さんのようになってはいけない、あの人は何ひとつ人間らしいこと、父親らしいことをあなたにしてくれなかった。あなたはそんな人間、アニメ屋になってはいけない」
 と言われ続けて育ちました。
 だから、宮崎吾朗も、
「僕は子どもの頃から何ひとつ親らしいことを、宮崎駿さんにしてもらったことはないです」
 とブログに書いています。
 宮崎駿監督は、ずっと家に帰らずにアニメを作り続けていた人間です。だから、彼が家族から赦されることはないかもしれません。でも、映画の中で、本来ならありえない赦しが主人公に与えられると、僕らはなぜか感動してしまいます。
 何も僕は、「宮崎駿はこんなにひどい人間だ」と言いたいわけではありません。僕らだって何かを成し遂げようとしたとき、絶対に犠牲を払っているはずです。「夢を追いかけよう」「家族を食わせよう」、そんな当たり前の望みを叶えるために誰かを犠牲にしなければならないのが、この世界のあり方なんです。
 あらゆる人の営みは、犠牲の上に成立しています。だからこそ、せめて綺麗な夢を見せたい。それが、『風立ちぬ』のラストシーンで宮崎駿監督が伝えようとしていることではないでしょうか。


fujipon.hatenablog.com



fujipon.hatenadiary.com
この本は『となりのトトロ』から『思い出のマーニー』まで、ジブリ作品の動画チェック担当のアニメーターとして、裏方に徹した舘野仁美さんによる回顧録です。
そのなかで、宮崎駿監督についての、こんなエピソードが出てきます。


「こまやかな気配りをする方」である宮崎駿監督も、「創作」に関しては、独善的なところがありました。
 『魔女の宅急便』で、キキが雁の群れと出会うシーンで、宮崎監督が「鳥の飛び方はこうじゃない!」と元が担当者を叱責したそうです。
 舘野さんは「担当者は研究熱心で、ちゃんと描けていたはずなのに、なぜ?」と疑問を抱きました。

 では、なぜ、宮崎さんの気に入らなかったのでしょうか。その謎は数年後にとけました。
 1994年の秋に社員旅行で奈良を訪れ、猿沢池のほとりを歩いていたときのこと。その鳥の種類がなんだったのか覚えていないのですが、池には水鳥の姿が見えました。たまたま近くに宮崎さんがいたのですが、空から舞い降りて翼をたたんだ一羽の水鳥に向かって、宮崎さんはこう言ったのです。
「おまえ、飛び方まちがってるよ」
<えええーっ!?>
 私は心の中で驚きの声を上げました。本物の鳥に向かって、おまえの飛び方はまちがっているとダメ出しする人なのです、宮崎さんは。現実の鳥に、自分の理想の飛び方を要求する人なのです。
 いろいろなことが腑に落ちた瞬間でした。
 宮崎さんが口癖のようにスタッフに言っていたのは、「写真やビデオ映像を見て、そのまま描くな」ということです。「資料を参考にして描きました」と語るアニメーターたちに、宮崎さんが厳しく接する場面を何度も目にしてきました。

 鳥も「いい迷惑」だったと思うのですが、これぞまさに宮崎駿!というエピソードです。
 これを読んでいたので、僕はあの川上さんが怒られるシーンも、「宮崎駿さん、機嫌悪かったのかな」としか感じなかったんですよ。


 宮崎駿という人は、正義の味方でも、ものわかりのいい大人でもない。
 独善的で、扱いにくい人なんですよ、たぶん。
 でも、だからこそ、そう簡単に曲がらないし、「自分の作品」を創っていられるのだと思う。
 

 別エントリにしようと思った話を先に書いてしまって、なんだか散らかった話になってきましたが、冒頭の「はてな匿名ダイアリー」を読んで疑問に思ったのは「なぜ、この話は『はてな匿名ダイアリー』に書かれたのだろうか?」ということでした。
 
 1年前くらいまで、川上さんは『cakes』で連載をされていましたし、いまも自身のブログが『はてな』に存在しているのに(1年以上更新されていませんが)。


kawango.hatenablog.com


 こんな話、自身のブログか『cakes』などのメディアでやれば、人がいっぱい来るに決まってるじゃないですか、「商売」としてはもったいない。
 でも、川上さんの現在の立場からすると、「公式」で波風を立てても、面倒事が増えるわりにメリットが少ない、とも言えるわけで、そういうときに「思いを表出する場所」として選ばれたのが『はてな匿名ダイアリー』だったのでしょう。
 まあ、『匿名ダイアリー』なら、いざとなれば「詠み人知らず」と言い張ることもできるし。

 
 公式ブログや個人と結びついているSNSではちょっと問題が大きくなりすぎるし、『2ちゃんねる』に書きこんでも、すぐに流れていってしまうだけかもしれない。
 「顔は見えないけれど、輪郭くらいはわかる誰か」として、いま、それなりの長さの文章で何かを主張し、多くの人に届けようとするのならば、いまのネットでもう『はてな匿名ダイアリー』くらいにしか、それができる場所はない。


 いまのネットでの発言って、「個人情報」と完璧に結びつくか、まったく誰だかわからない「名無しさん」かの両極に分かれてしまっているのです。
 思えば、まだISDNとかでつながっていた時代のネットって、「深堀りすれば誰だかわかるのかもしれないけれど、あえてハンドルネームのままにしておく」という書き手の割合が多かったような気がします。
 知り合いが読んでいても、知らんぷりしてね、っていう。
 それでも、不倫日記で「特定」されて炎上、なんてことは、ときどきあったのですけど。


fujipon.hatenadiary.com

 ただ、上記の著書のなかで、川上さんは、「ネットでのビジネス」について、こんな話もされているんですよね。

 旧世界の代名詞としての”リアル”と新世界の代名詞としての”ネット”。リアルとネットという言い回しには、ネットはリアル=現実世界とは通用する常識が異なる別世界であるというニュアンスがあると冒頭で書きました。
 なぜ、ネットがリアルと異なる別世界にならなければならなかったのか。それはインターネットでビジネスをしようとする人が、インターネットはリアルの世界が進化した新しい世界だというような説明をしたほうが、都合がよかったからでしょう。
 インターネットは資本市場と結びつくことで、バーチャルなビジネスプランから現実のお金を集める装置として機能するということは説明してきました。
 その際に、リアルの世界と鏡像関係にあるような未来のネット社会、という単純なモデルは他人に説明するビジネスプランをつくるときに、とても使いやすいのです。
 新聞、雑誌などのオールドメディアに対するネットメディアという図式。広告代理店に対するネット広告代理店。証券会社に対するネット証券。銀行に対するネット銀行。ネット生保にネット電話にネットスーパーと、なんでもネットをつければ新しいビジネスモデルができるのです。
 現実に存在しているビジネスのネット版という分かったような分からないような単純なアナロジーで、ビジネスモデルが簡単につくれる。そしてバーチャルなビジネスモデルができればリアルなお金が集ってしまう。
 ベンチャービジネスの中でも特にITベンチャーにお金が集中してITバブルが起こった背景には、ネットとつければとにかく簡単にネタになる新しいビジネスモデルがつくれてしまう、そういう構造があったのです。
 なんでもネットをつければビジネスプランができてしまう現実は、どういう根拠によって支えられていたのかというと、それはインターネットにまつわるビジネスというものは、ほとんどすべて本質的には安売り商法だからです。
 インターネットを利用することにより、あらゆるサービスや商品を安く、あるいは無料で提供する。そして安かったり無料だったりするからお客が集る、というあまりにも単純であるが故にあまりにも万能なモデルです。


 ネットは、商品だけではなく、人と人との距離も「安売り」することによって成長してきたのです。
 「安売り」というのは言葉のイメージが悪いので、「つながりやすくした」と言い換えてもいい。
 その「つながり」には、もちろん、メリットもあれば、デメリットもある。


 今回、「公式」と「名無しさん」の隙間、いまのネットでは、限りなく狭くなってしまったその場所で、川上さん(らしき人)があえてこれを書いたのは、なぜなのだろうか。
 もしかしたら、「ネットそのものが逃げ場」だった時代から、「ネットの中に、『名無しさんではない誰か』として、不特定多数の人に感情を吐き出せる場所をつくる」ことが、いま、求められているのかもしれません。
 今、求められているのは、ネットの中に「もうひとつの、昔のようなインターネット」をつくることのような気がするのです。


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