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いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

多摩美術大学の「佐野研二郎氏の葬儀パフォーマンス」は「アート」なのだろうか?

www.huffingtonpost.jp
www.huffingtonpost.jp


この「目撃した漫画家」って、多摩美出身の桜玉吉先生じゃない?(すみません、玉吉さんが多摩美出身なので、ファンの僕が勝手にそういう想像をしただけです。誰かは全然記事には書いてありませんから念のため)とか思いつつ読んでいたのですが、僕のこの件に関しての印象は「不謹慎ではあるけれど、『不謹慎だ』と言われることも含めて『アート』のつもりなんだろうな」です。
うーむ、僕は「アート」と呼ばれるものに興味はあって、「現代アート」というものにも頑張って触れてみてはいるのですが、正直なところ、ジャクソン・ポロックとか「何でこれが何億円もするんだ?」としか思えないし、村上隆さんの作品も「言いくるめるのがうまいだけ」なんじゃないか?とか考えてしまうのです。
いやしかし、アート、とくに現代アートって、要するに「どんなもっともらしい説明をするか競争」みたいなところってありますよね。
いや、そんなもんじゃない、って本物のアーティストには言われるかもしれないけど。


そもそも、「現代アートの出発点」と言われている作品がこれですよ。
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マルセル・デュシャンの『泉』(1971)という作品ですが、男性が小用を足すための便器。
でも、これを「アートだ!」と主張するところから、現代アートは「出発」したのです。


「みんなを驚かせたり、腹を立てさせたりして、話題になったもの勝ち」という面が、現代の「アート」には、たしかにあるのです。


もうずいぶん昔の話なのですが、福岡で行なわれた『アンディ・ウォーホル展』を観に行きました。
ウォーホルといえば、キャンベル・スープ缶やいろんな色をつけられたマリリン・モンローなどが有名で、僕もそういうイメージを持っていたのですが、後期のウォーホルは、自殺とか交通事故で人が死んだ記事とか電気椅子とかをモチーフにした作品を数多くつくっていたのです。
まあ、特定の誰かを対象にしたものではなくても、「不謹慎」ではありますよね。


jisin.jp
これなんか、レアものだったとはいえ、自動車事故の写真の転写なのに、落札価格は103億円!


ウォーホルは1968年に「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と言ったのですが、これらは、メディア社会における人間の「死」というものをモチーフにした「作品」だったのです。
まあでも、電気椅子の写真や交通事故の写真そのものが、本当に「アート」なのだろうか、と僕などはやっぱり考え込んでしまうんですよね。
しかしその、考え込んでしまうところも含めての「アート」なのだと言われると、そうかなるほど、という気もしてくる。
なんだかもう、わかるような、わからないような。


fujipon.hatenadiary.com


「アート」か「不謹慎」か?といえば、こんな話もありました。
原爆ドームの空に“ピカッ”で『Chim↑Pom─ひろしま展』中止となった問題を考える|Chim↑Pom卯城竜太氏、広島市現代美術館のコメント、そして19名のアンケート結果を掲載 - 骰子の眼 - webDICE


 広島に住んでいたことがある僕としては、「原爆を売名行為に利用するなよ!」という不快感はありました。
 やっていた人たちは、たぶん、悪意からではなかったんですよね。
 結局、これは大きな批判にさらされて、広島市現代美術館で開催予定だった展覧会が中止になったのです。


「これがアートなのか?」という論争になったものといえば、こんな事例もあります。
lootone.exblog.jp



 どうも「現代アート」というのは「どのくらい世間を騒がせるか勝負」というか、「いかにバカバカしいか、いかに世間を挑発して叩かれるかを競っているようにも見えるのです。
 アートが「社会への問題提起」を含んでいることも多いですし。


 というわけで、長々と書いてきましたが、この多摩美術大学での「佐野研二郎氏の葬儀」パフォーマンスなのですが、実に悪趣味で不謹慎です。個人的には「面白い」とも思えない。
 こういう「葬儀」というやりかたが、パフォーマンスとしてはすでに時代遅れなのではないか、という気がします。
 しかしながら、佐野研二郎さんがこの大学の教授であるということを考えると、こういうことのネタにされるのも、教授の給料に含まれているのかもしれないな、と感じるんですよ。
 そもそも、これが「いじめられている子供の葬式ごっこ」と同じかと言われると、必ずしも同じではなくて、違う解釈ができるのではなかろうか。
 佐野研二郎さんは、あの「パクリ疑惑」によって、アーティストとしては「生きているのに、世間からは死んだ人、終わった人のように扱われている」のは紛れも無い事実でしょう。
 このパフォーマンスをやった人たちの真意は、現時点ではわかりません。
 そして、これが「アート」であるならば、あまり説明しないほうが良いのかもしれません。
 ただ、この「葬儀パフォーマンス」は、いじめ的な「葬式ごっこ」ではなくて、世間や社会への「みんな、佐野さんはもう『いなくなった人』だと思っているんでしょう?」という「問題提起」だとも受けとることは可能です。
 アーティストに対して、「心臓は動いているから、生きている!でも、あなたの作品は金輪際認めないし、言い訳も聞かないけどね」と言っているのは誰なのか?
 そういう扱いをされているのでは、実質的に「死んでいる」のと同じではないのか?

 
 単なる話題づくり、面白半分でやった可能性もあるとは思うんですけどね。
 それにしても、これが「アート」なのだと向こうから主張されたら、「それは違う」とこちらから断言するのは難しい。
 念のために言っておきますが、学校のいじめの「葬式ごっこ」は「アート」ではありません。
 この佐野さんの事例も、佐野さん御本人が「不快だ、絶対にイヤだ」と仰るのであれば、やっぱり「アート」だとは言えないでしょう。
 佐野さんは公人であり、この大学の教授であり、権力を持っている存在でもあった、ということを考えると、「いじめの葬式ごっこ」とは経緯や文脈が異なると思います。
 ただし、「こちら側」も「これは不謹慎だ」「やってはいけないラインを踏み越えている」と反論することはできますし、それも含めての「アート」なのです。


 それらしい理屈を並べれば、悪ふざけも「アート」になるのか?
 率直に言うと、僕は「なる」と考えているのです。
 ただし、「アートだから無罪」ではないけれど。


 うーん、でもやっぱりあんまり自信ないなあ。「美大ってそういうのを『アート』として許容するところだろ?」というのは、今の世の中には、もうあてはまらないような気もするし。


fujipon.hatenadiary.com

最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―

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