いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ブログには不向きな「会って話をすればわかる主義者」


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僕もこの番組を観ていたんですよね。

 今回の騒動について、堀氏は「僕は本当に憤ったんです」と話した。そして、長谷川氏に「病気になるのにはいろんな理由があって、その人が怠惰な生活しようがしまいが関係ない。病気になった人を殺せなんて言い方は誤ってます。残念です」との内容のLINEを送ったことを明かした。

 このLINEに対し、長谷川氏からの返信は「確かに言い方については悪かったと思う。でも会って話をしたら何とか分かってくれるに違いない。だから堀君もともに戦おう」という内容だった。堀氏は「なんかピントがずれてる。どこまで放送に出てしゃべる仕事の人として自覚があるのかなと。現場の人の痛みとか、人間の機微を分かってるのかなと。同業者としては非常に恥ずかしい」と長谷川氏の姿勢を丁寧な言葉でバッサリ。「ご本人は議論が広がればいいとおっしゃるけど、過激な文言は議論は広がらないです。過剰な批判しか呼ばないです」と結論づけた。


堀潤さんもこれまでの著書やネットでの発言からみると「会って話をすればわかる主義者」的なところがありそうなのですが、その堀潤さんにここまで言わせてしまうのか、と。


僕自身もネットでさまざまなことを書いてきて、「誤解」されてしまったな、と思うことも少なからずあるのです。
そのたびに、「内容を先入観なしに読んでもらえれば……」「このコメントを書いている人と直接話ができれば、わかってもらえるかもしれないのに」と考えてしまっていたのです。


でも、あらためて考えてみると、「直接会わなくても、意見を言える」というのは、ネットの問題点である一方で、利点でもあるんですよね。
僕が対人コミュニケーションを苦手としているからなのかもしれませんが、「会って話をする」ということには、けっこうプレッシャーがかかるのです。
僕も基本的に「他人に嫌われたくない人間」ですし。


目の前にいる相手に厳しい意見をぶつけたり、批判をする、っていうのは、そう簡単にできることじゃない。
どんなに嫌いな上司、苦手な上司でも、目の前にいる状態で、言いたい事をぶつけるのは難しい。
それは「政治的判断」でもあります。
友人との飲み会とかだと、けっこうひどいこと、社会的な基準に反することを言って、笑いあったりしがちじゃないですか。ああいうのって、みんな「本音だから楽しい」と思っているのだろうか、それとも、「まあ、ここで笑っておかないと、付き合い悪い真面目なヤツってことになっちゃうからな」って、考えているのだろうか。


長谷川さんは、いままでたくさんの人に会って、「理解」してもらった成功体験があったのではないかと思います。
人前に出る仕事をされていますし、「自分の説得力」みたいなものに自信があるのだろうな、と。
ただ、それは、話の内容の説得力ではなくて、場慣れしている人間が持っている「存在感」というか「存在圧力」みたいなものなんですよね、たぶん。
「会って話せばわかる」と言うけれど、どちらかというと「本人を目の前にすると、客観的に話の内容を判断することは難しくなる」ところがあるのです。
けっこう前の話なのですが、鳩山由紀夫さんの選挙活動中に握手してもらった、という同級生が、「鳩山さん、カッコよかった!なんかオーラが出てた!」って興奮しながら話していたのを思い出します。
長谷川さんも、こういう「オーラが出ている」タイプなのではなかろうか。
それで他人を惹き付けているのを「自分の言動が正しいから」だと認識しているような気がします。
こちら側にも「この人は有名なアナウンサーだ、テレビに出ている人だ」と萎縮して、恐れ入ってしまうところがあるのでしょう。


「ネットでは、文字だけでは伝わらないこと」って、たくさんあります。
でも、だからこそ、ブログとかネットという「文字だけで伝える媒体」で伝えることを選んだ人は、その制限のなかで、どうやって相手に自分が言いたいことをうまく伝えるか、に苦悩しなければならないと思うのです。
講演会とか握手会とかセミナーを主戦場にしている人が「直接会えばわかる」というのは、理にかなっているのだけれど、ブログで発信しているにもかかわらず、書かれている文字で伝える場を選んでいるにもかかわらず、「会えばわかる」って言うのは、やっぱり筋が違うのではないかなあ。
確かに、とんでもない誤読をされたり、書いてもいないことを「お前はこう思っているんだろう」と決めつけられたりして、落ち込むことは少なくありませんが。


これは「発信側」にだけではなくて、「反応する側」にも言える話なんですよね。
気に入らない意見や人間に対して、ネット上でも「死ね」「くたばれ」「消えろカス」とかいう「言葉」を投げつけるのも、「自分自身をそういう人間に貶めてしまうこと」なのです。
……って、偉そうなこと言ってますが、僕も心のなかでは、そういう呪いを投げつけることもあるんですけどね。


「会えばわかる」と思っているのならばなおさら、「会わなければ誤解される」ようなことはしないように気をつけたほうが良い。
「直接面と向かっては言えないこと」を言葉にできるのは、ネットのメリットです。
でも、「直接面と向かっては言えないこと」は、ネット経由になることで、かえって問題が大きくなることもあります。


「ネットが息苦しくなった」と感じることが、僕にもあります。
ただ、それはもう、後戻りすることはできない変化であり、それがイヤなら、LINEでやってろ、っていう話なんですよね。
ひと言で「ネット」って考えがちだけれど、ネットの中でも、SNSとブログでは「棲み分け」がなされているのが現状であり、そこには「仲間」によって細分化された世界ができあがっています。
Twitterでさえ、「フォロー外から失礼します」って言うのが「礼儀」と考えている人が少なくありません。
そもそもTwitterって、フォロー外からも突っ込まれるのが前提のサービスじゃないの?って言いたくもなるのだけれど、それは「こちらの感覚」でしかない。


その一方で、こういう時代だからこそ、「あけすけな言葉」が求められている、と感じることもあるのです。
でも、それをやるには相当な覚悟が必要で、有名人がやるにはリスクが高すぎ、無名の人がやっても誰も興味を持たない、という難しさがあるのだよなあ。
僕は人間の「本音」って、そんな極端なものじゃない、とも思うのですけどね。


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